日本文化の発展に三都分立があった

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【写真は、ソウル北村から望むソウル市内】

江戸っ子はそそっかしいのが自慢ですけど、ご多分にもれずに私も同じです。
(いま、江戸つまり東京に住んでいないので、かつての江戸っ子ですが。。。)

過日も韓国側から執筆依頼を受けた文章、よく要項を読まずに書きあげてしまい、送ったところNGとなってしまいました。ざっと要項を読んで「都市論」ってなことで良かろう思ったのですが、そうではなくて実際にある都市へ行く場合の参考というか指南というか、そうしたもの歴史を踏まえて書いて欲しいと頼まれていたのです。

もちろん、韓国語が読めないわけではなくて、微妙なニュアンスというのでしょうか。そうしたものを読み落としてしまうということは、まだまだあるんですね。語学は難しいです。
別途、執筆意図に則った文章を、きちんと書きあげて送りました。それはまたいずれ紹介ということですが、そのボツになった文章、もったいないので、ここで紹介させていただきます。
内容は、当たり前と言えば当たり前ですが、けっこう見落とされているものでもアリラン・スリランということで・・・。

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日本文化の発展に三都分立があった

  はじめに

まだ私が紅顔の中学生であった頃、学校の授業「政治経済」でモンテスキューの三権分立(『法の精神』)を習い、深く感動したことを今でもよく覚えている。権力を一つに集中させず分散し、相互監視させることで権力の乱用と腐敗を防ぐ。こんなことを思いつき実現させてしまう人間というものは、やはり大したものだと子供ながらに感心したのである。むろん、その後に日本や世界の歴史を学び、そうした権力分散が如何に難しく、現実にはそう簡単には行かないことを知ったりもした(注1)。
ここで三権分立を持ちだしたのは、これから政治の話をしたいからではない。この三権分立といささか通底する、日本の江戸時代の都市文化について話をしたいからである。そして、結論から先に言ってしまえば、都市にも三権分立のような「分立」が必要ではないか、そんなことが言いたいからである。

  一 江戸の三都

江戸時代の日本では、京都、大阪(注2) 、江戸という三つの都市が繁栄した。面白いのは、これら三都は性格が大きく異なっていたことである。京都は何と言っても文化の町である。平安時代から続く伝統を基に、貴族文化を育みつつ、かつ積極的に新しい文化をも創り続けた町である。この京都から約40kmの大阪は経済の町である。穏やかな内海である瀬戸内海に接し、全国に水運で繋がることで一大商業都市となった。江戸時代の中盤以降に「天下の台所」と称された通りである。その京都・大阪から遠く離れた江戸は政治と武士の町である。豊臣秀吉(1538~1598)の命によって、駿府(現・静岡県)から江戸に移り住んだ徳川家康(1543~1616)が造った。江戸は、日本最大の関東平野にあるが、大小多くの河川が氾濫する危険な場所でもあった。それを家康は土木と建築の力で制し、巨大な都市を作り上げた。江戸城(現・皇居)を中心に全国の大名が屋敷を構え、その周囲に町人たちが集住する、まさに政治の町、男の町である。
この三都、江戸時代を通じて基本的にその三態三様を保持していたのだが、江戸時代の二百六十年間、常に同じというわけではなかった。江戸時代が始まった十七世紀初頭から元禄・享保までの前半の百三十年間、三都の中でも力を持ったのは、京都と大阪であった。京都は、古くからの伝統とともに足利氏が1330年代から1570年代までの二百四十年間の室町時代、政権を置いた場所である。大阪は、戦国時代を統一し権力を握った豊臣氏が、豪壮な大阪城を築き上げた場所である。江戸時代の前半は、その流れを受け継ぎ、京大阪は繁栄したのである。こうした京大阪から江戸へと伝わって来る文物を「下りもの」「下り荷」と言った。江戸に比べて京大阪が一段上であるという意識があったからである。そして京大阪以外、特に江戸周辺から江戸に来る文物を「下らぬもの」と言った。現代でも価値の低いことを「下らない」と言うが、その慣習はここから来ている。それほどに江戸に比べて京大阪は位が上だったのである。ところが、江戸時代も18世紀の半ばを過ぎるころから、江戸が大きく台頭し京大阪に肩を並べることになる。そして文運東漸(文化が東から西へ移ること)が起こり、文化も経済も江戸が京大阪を凌ぐようになると、江戸への一極集中が起こってくる。つまり京・大阪・江戸の三都がそれぞれの役割を持ち、分散しつつも影響を与えながら共存していたのは、江戸時代の前半から中盤にかけて、特に元禄時代(17世紀後半)の前後であったと言ってよい。

二 三都の遊郭と文化

その元禄の頃、京大阪を中心に活躍した俳諧師・小説家に井原西鶴(1642~1693)が居る。彼はこの三都はもちろん三都の遊郭(京=島原、大阪=新町、江戸=吉原)にすこぶる詳しかった。その西鶴が三都の遊郭を比較した言葉として有名なものがある。

京の女郎に、江戸の張(はり)をもたせ、大坂の揚屋であはば、此上、何か有るべし。(『好色一代男』巻六の六「匂ひはかづけ物」)

現代語訳すれば「京都の優れた遊女に、江戸の遊女たちが持っている張り(気の強さ)を持たせて、大阪の豪勢な遊郭で会えるならば、これ以上何も望むものはない」となる。
遊女の伝統はやはり京都から始まった。室町時代から戦国時代にかけて、流浪・散在していた遊女を集め遊郭を築いたのは、京都の町衆(まちしゅう)たちでで、彼らは貴族に劣らぬ教養を持ち、和歌・連歌・花・茶といった芸術を発展させていった。京の遊女はそうした芸術への通暁が求められ、極めて教養が高かった。しかし、西鶴を始めとする一般の町人・商人にとっては、京の遊女の優雅さは憧れの的ではあったものの、やはり穏やか過ぎて詰まらない点もあったのであろう。それに比べて江戸の遊女は男っぽさや強さが売りであった。京大阪に比べて武士や男性が多く住む町であったから、遊女も自然にそうした雰囲気を身に付けたのである。そして豪華な遊郭となればやはり経済の町大阪の遊郭(新町)であろう。大阪の商人たちが贅を尽くして作り上げた町である。また「天下の台所」ゆえに日本全国の物産が集まった。

 三 三都の調和と東アジア世界への視点

西鶴の言葉には、三都それぞれの特色が良く示されているのだが、それが、一人の理想的な遊女との形で統合されていることが重要である。たとえば、現代の中国人女性が、結婚するなら勤勉な日本人男性に、韓国人男性の端正さと強さを持たせ、上海の高層マンションで豪勢な生活を送りたい、と言ったとしよう。ここには現代の中国・韓国・日本それぞれの特色が映し出されているが、同時に、三国がほぼ同等の力を持ち、安定と調和が保たれていることが前提になっていることに気づくはずである。三国のどこかが突出した力を持ってしまえば、こうした比喩は成立しえない。いずれにしても、西鶴の生きた元禄時代、伝統の持つ優雅さと柔らかさ(京)、力が生み出す緊張感と躍動感(江戸)、経済が生み出す豪華さと自由闊達さ(大阪)。これらが微妙にバランスを取りながら三都は発展していたのである。
この時期、三都が三点という「面」の広がりを持っていたように、人々の関心も「面」の広がりを志向していた。たとえば、江戸時代初期の17世紀前半、徳川家康の打ち出した朱印船貿易という海外交流政策によって日本は空前の海外交流ブームを生みだした。多くの商人や武士が海外へ進出し日本人町を作り、その海外の珍しい文物が日本に流れ込んだ。この朱印船貿易は17世紀中盤の海禁(鎖国)政策によって人的交流に関しては門戸を閉ざしてしまうが、引き続き四つの口(薩摩、長崎、対馬、松前)を通して盛んな海外との貿易が展開された。そうした海外交流は、思想や宗教においても大きな影響を与え、中国から朝鮮を経由し多くの儒学関連書籍が日本に渡ると、多くの学者に受け入れられ(と同時に反発もあり)様々な新しい思想が生まれた。また仏教も隠元隆琦(1592~1673)が中国の黄檗宗を伝えると禅宗を中心に日本の仏教も再燃した。
先にあげた西鶴も、「おのおの広き世界を見ぬゆへ」(『西鶴諸国はなし』巻三の六)、「広き世界をしらぬ人こそ口惜けれ」(『日本永代蔵』巻四の二)など、盛んに世界へ視野を広げることの重要性を強調していた。

 四 一極集中と日本史の発生

ところが、この三都分立とも言うべきバランスが、江戸時代の後半になるに従って崩れ始め、江戸への一極集中が始まることになる。この頃から、日本人の関心は、東アジア世界から、日本の古代を始めとする歴史やルーツへと移り始めて行く。江戸時代前半の儒学(中国学)や仏教(インド学)に代わって、国学(日本学)や神道(日本宗教)が人々の心を掴み始めるのである。西鶴の言う「広さ」よりも、深さへ興味が転換したのである。
日本にこうした変化が起こったことには背景がある。それは西欧列強の日本近海への出没である。1792年にロシアのラクスマンが根室に来航、1808年のイギリス軍艦が長崎港に入りオランダ商館員を人質に水と食料を要求するというフェートン号事件が起き、1824年水戸藩内大津にイギリス人が上陸するなどを皮切りに、日本近海に陸続と西欧の船籍が出没するようになる。この列強への恐怖感によって日本は、それまであやふやだった自己認識を覚醒させざるを得なかった。そして、外敵から守るべき日本とは何かを自問するようになったのである。
ここに私は「日本史」の発生を見る。むろん、日本の本土、本州を中心に見れば、旧石器時代から縄文、弥生、そして大和朝廷へと続く日本の歴史はあるが、それは東アジアやアジアの様々な民族や国家と交流・交錯して出来あがったもので、決して一本道ではない。ましてや本土以外の北海道(アイヌ文化)や沖縄(琉球文化)を含む列島の歴史は、まさに縄に糾(あざな)う前の藁のような存在で、実に多様な様相を呈していたのである。
この多様さは、京・大阪・江戸の三都でも同様で、たとえば通貨を例にとれば、京大阪では江戸時代まで銀が中心貨幣であり、江戸は金が中心貨幣であった。その間の交換には両替商が活躍した。つまり京大阪と江戸では経済圏から見れば別の国家であったと言ってよい。それが江戸時代の後半から始まった江戸への一極集中、それを享けての明治政府による東京という帝都建設によって、日本は東京を中心にピラミッド型の近代国家に変身したのである。そして、その帝都はそのまま1945年の第二次世界大戦の敗戦まで一気呵成に近代国家の道(それは日本のみならずアジアに悲劇をもたらす道でもあった)を突き進むことになる。
こうした日本の江戸時代以降の近代史を振り返ると、つくづく都市の一極集中は避けるべきだという思いに襲われる(注3)。一つの国に一つの歴史というのは、稚拙で野蛮な幻想に過ぎない。国家が、様々な民族や文化が寄り集まったものであるのなら、その上に咲く都市の文化はこれまた様々であるのが健全な国の在り方である。
韓国もソウルに一極集中しており、その度合いは日本より激しいと聞く。中国・日本・ロシアという大国に囲まれ、かつ北朝鮮との民族分離の問題がある韓国は、国民が一枚岩に成らざるを得ない点もあろう。しかし一極集中のピラミッド社会は息苦しく、健全な文化の発展も望むべくもない。私はソウルはもとより、釜山、慶州、大丘、大田、全州、木浦、江原、江陵などの地方都市に何度も旅をし、その度ごとに、それぞれの美しさ豊かさを再認識している。そうした都市の「幸福」を失わないためにも、ピラミッド型でない多山型の都市発展が心より望まれるのである。(了)

注1:本稿執筆中の2016年9月16日、日本の沖縄県における米軍基地移転に対する裁判(基地移転を認めない県に対して、国が県の措置は違法だと訴えた)で、福岡高等裁判所で判決が出たとのニュースが飛び込んできた。判決は国の主張を認めて県側の主張は退けられた。この米軍基地問題に関する限り、日本の司法は行政(国)側に立っており、三権分立における司法の独立は守られているとはとても言い難い。
注2:大阪は江戸時代には「大坂」と表記した。明治時代以降「大阪」になった。本来なら「大坂」と表記すべきだが、煩わしいので、ここでは全て「大阪」で通すことにする。
注3:なお日本の三都の中でも、大阪は実にユニークな都市である。その特色の一端については、拙著『西鶴小説論―対照的構造と〈東アジア〉への視界』(翰林書房、2015年)の「西鶴・大阪・椀久―武士と町人の「谷」町筋」において述べたことがある。なお該本は博士論文として、その後、総合研究大学院大学に提出した関係でデジタル化されて公開されている。http://ci.nii.ac.jp/naid/500000581914 ご参照たまわれば有難い。

(参考文献)
田中優子『未来のための江戸学』小学館101新書、2009年
宮本又次『関西と関東』文春学藝ライブラリー(文藝春秋社)2014年
井上章一『京都ぎらい』朝日新書、2015年

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