『男色大鑑』座談会

IMG_3006[1].JPG
勉誠出版の企画で、男色をテーマにした学術書を作ることになりました。
過日、その中に載せる座談会を行いました。テーマは「男色のコミカライズ」。出席者はコミックライター&イラストレイターの大竹直子さん、カドカワ・コミックビーズロク編集部(今回の男色大鑑コミック三部作【上の写真】企画編集)の斉藤由香里さん、勉誠出版編集部の武内可夏子さん、敬愛大の畑中千晶さんと私で(なんと男は私のみ)、約5時間に渡って話は盛り上がり、大竹さんと畑中さんとはその後食事に行って終電まで男色話が続きました。いやはやなんとも愉快な一日だったわけです。

『男色大鑑』がコミック(BL系)になると畑中さんからお聞きしたのは、確か今年の春だったと思います。それにともなって『男色大鑑』の人気が俄かに沸騰しているとも。。。正直、驚きました。何せ、この作品、西鶴が最も力を入れて作ったとおぼしきにも関わらず、後世、西鶴作品中、最も不遇で、日蔭の身に甘んじて来た作品だからです。理由は単純、アブノーマルだと見られたから。近代の男色蔑視によって裁断されちゃったわけです。西鶴先生、今ごろ草葉の陰で辰弥といっしょにうれし涙を流しているに違いありません。や、やっと百年の知己(ももとせのちき)が現れたと。。。(涙)

かく言う私が『男色大鑑』と出会ったのは大学三年の頃でした。今から言うと40年近くも前ってことになりますね。西鶴を卒論でやりたいと思っていた私は、『男色大鑑』というオモコワな作品を調べ始めてみると、作品に関する論文がほとんどない。こりゃ書きやすくていいかも、が半分、判官贔屓が半分で卒論にしようと考えたのです。ところが、周囲の先輩諸氏からはやめた方がよいとのアドバイス(確か、将来教員になる時に支障が出るといかん、だったと思います)があって、じゃ、やはり定石通り処女作からということで『好色一代男』を卒論にしたのです。

要するに、この時『男色大鑑』の良さに全く気が付いていなかったのですね。ところが、大学院に入って本格的に男色とは衆道とは何かを調べ始めて驚いたわけです。男色がいかに日本文化、いや世界の文明・文化にとって重要かが分かっちゃったからです。それで、そこから取って返し、西鶴はやはりただ者ではないとはたと膝を打ったわけです。

つまり私は男色も『男色大鑑』も状況証拠と言いますか「知」から入っていったわけです。ところが今回、大竹直子さんと話をして驚きました。彼女は「知」よりも「情」「想」「念」から『男色大鑑』に入って来て、この作品のツボ、勘所をむんずと鷲掴んでいたからです。たとえば「傘持てぬるる身」の長坂小輪の解釈ですが、小輪が最初っから殿に殺されることを望んでいて、それは最高のエクスタシーであったと大竹さんは言われました。今回のコミカライズもそのように描かれています。実は、研究の方でも、そうした願望を小輪に見出しているのですが、これには相当な研究の蓄積がありました。研究史に触れ出すと長くなりますので簡単に言うと、最初、小輪は殿を恨んでいたという解釈が主流だったのですが、奈良女子大の井口洋氏が殿と小輪は相愛であったと発表して研究史をひっくり返し、その後私が『葉隠』などの周辺資料をもとに、井口説を補強したという経緯があります。そこへ至るまで何十年もかかっているんですね。

ところが大竹さんはそんな階段をぽーんと飛び越え、一挙に核心に迫ったのですから驚きです。しかも、上村辰弥(うえむらたつや)に至っては『男色大鑑』の一篇しか大竹さんは知らず、そこから西鶴との関係を妄想して、二人の真の関係を射抜いてしまったのですから、これはもう奇跡としか言いようがありませーーん。大竹さんの妄想力はすごい、すごすぎる! これこそ本当の妄想竹(もうそうちく)です。あははー、ざぶとん一枚。

もちろん、大竹さんとお話をして彼女の幅広い知識にも脱帽しましたが、それは学者にもある話です。しかし、この妄想力・想像力は作家の創作でなければ成し得ないものだと私は感じました。研究とは違う道で、そういうのが確かにあるんです。私も下手なりに俳句・連句をやってますから、研究の神様と創作の神様の性格がまるで違うことはよーく分かっています。

大竹さんも言ってましたが、大竹さんのような創作畑の人に対して、史実はどうだ、事実はこうだと言い立てる野暮天知識人は居ると思いますが、そう「いふ人はのけて置きて」(『男色大鑑』巻八の四)妄想竹をずずいと伸ばして欲しいと思いました。かの芭蕉が弘法大師の言葉をなぞるかたちで「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と言ったのもそのことです。西鶴の作品は創作ですから、創作してみないと見えないものがたくさんあるはずなんです。

ま、ともかく、そういうことで、お蔭さまと言いますか、私も改めて男色や『男色大鑑』研究に向かう意欲を大いに刺激していただいたところです。大竹さんとの座談をまとめた本、来年になってしまいますが、出しますので期待していてください。

なお、大竹さんのツイートに、辰弥が死んでから後を追うようにして西鶴が死んだと私が言った旨書かれていました。正確に言い直しますと、辰弥が自殺したのは元禄四年で、西鶴が死んだのは元禄六年です。そして西鶴の盲目の娘が元禄五年に亡くなっています。つまり辰弥と娘のダブルパンチがあったわけですね。

西鶴の創作年譜を見ると、元禄三年四年は西鶴に良い作品がありません。病気がちだったのではないかとも言われますが、この元禄三、四年は歌舞伎評判記類を見ると、辰弥が相当荒れていた時期で、お客とのトラブルも多かったようです。西鶴の心痛も相当だったはずです。娘の調子も良くなかったでしょう。それで積極的な創作に心が向かなかったというのが私の見立てです。

なお、西鶴は辰弥が死んだことについて何も書き遺していないのですが、ちょっと気になることがあります。それは西鶴の辞世の句です。

  辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや
  浮世の月見過しにけり末二年

『西鶴置土産』冒頭に載る有名なものですが、訳しますと、「人間の定命五十年という定め、それだけでも私は持てあましてきたのに、まして・・・浮世の月を二年も余計に見続けてしまったことよ」となります([見過ごす」は現代語だと見逃すになりますが、ここでは「見続ける」です)。つまり、五十歳で死にたかったのに、二年も余分に生きてしまった、ということです。この句に対して研究者は、芭蕉の辞世の句(旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」などと比べて、浮世に対して執着せずに、こだわりを捨てた西鶴の境地が込められていると、その爽快感を評価してきたのですが、果たしてそうかと私はいささか訝しく思っています。

そこで辰弥です。この西鶴の句文に辰弥の死を重ねますと、全く違った意味が浮上してきます。辰弥が死んだ時、西鶴は五十歳、後をすぐにでも追いたかったが二年も過ぎてしまった。この二年は全く私にとって無意味な時だったが、これでようやく辰弥のもとへ行ける、ということになります。こだわりのない表向きの別れの挨拶の奥に、西鶴は、辰弥との逢瀬を深く秘匿したと私は見ています。

なお、同じく大竹さんの言われた、『男色大鑑』は辰弥のために書かれた作品というのは、私の密かな妄想、いや学説ですが、まだ論文にしてません。そのうちどこかでと考えています。もちろん自信はありますよ。

辰弥については小学館の日本古典文学全集「井原西鶴集2」に載る『男色大鑑』の役者解説が短いながらも参考になります。その部分だけ写真にして掲載してみました。ご参考まで。

IMG_3025[1].JPGIMG_3026[1].JPG

この記事へのコメント

最近の記事

最近のコメント