ラウンドテーブルでなく、討論+筆談テーブルが良いかもね!  (近世文学会報告)

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11月12日(土)、13日(日)に信州大学で行われた近世文学会が終了しました。
関係者の皆さん、お疲れさまでした。特に、速水香織さんをはじめとする信州大の教員・スタッフ、学生のみなさん、ありがとうございました。

今回は、初のラウンドテーブル開催ということで、会場の確保その他、たいへんだったと思います。お陰さまで充実したテーブルになったと思います。とくに絶妙だったのは会場の配置です。私どものところは40人程度の教室だったのですが、そこに30人弱でしょうか。広くもなく狭くもなくぴったしで、ゆったりと2時間を過ごすことができました。

さて、そのラウンドですが。。。

「朝鮮通信使への新しい視覚―宝暦使行(江戸時代、第十一回)を中心に―」という題目で行いました。鶴見大の金文京氏は、宝暦使行の際に作られた木村蒹葭堂「蒹葭雅集図」を基に、細かくは詩文の解釈から始まり、蒹葭堂に集まった日本の文人たちの動向・交流、そして日朝文士たちの在り方から大きくは日朝の政治姿勢の違いまで多岐にわたるご発表でした。続く近衛典子氏は、宝暦使行に対する日本側の様々な反応を上田秋成の文章(たとえば『膽大小心録』など)から抽出していただき、通信使に関心を持つ文人たちの関心が多様多層であったことをご指摘いただきました。また、康盛国氏からは、詩文を作らねばならない朝鮮文士たちの苦労・工夫を文士たちの詩の改稿という新しい視点から導き出されました。

その後、会場からの質問を基に討論に移りましたが、後に「唐人殺し」の名で広まった、鈴木伝蔵による通信使殺害事件に芝居関係者がどのように関わっていたのかというスリリングな話題、加賀千代女が推敲し通信使に届けられたという21句が本当に献じられたのかどうか、通信使に日本との詩文のやり取り以外に、画図の収集という目的もあったのかどうか、などなどでした。

とくに鈴木伝蔵の事件に関しては、大典の「書鈴木伝蔵事」から、大坂城代等の公権力からの命によって演劇関係者が伝蔵の捕縛に動いたということがあったのではないか、それがあったからこそ、後日の『漢人韓文手管始』を始めとする作品の隆盛を導いたのではないかとする金氏に対して、公権力と演劇関係者は政治的には一応切れているので、そこまで考えにくいのではないかという近世文学者側からのやりとりがありました。最終的には、大典の文には、事件の真相(朝鮮人参の売買等)をあからさまに出来ない事情があり、そのために芝居関係者の動きを強調したのではないかという所へ今回は落ち着きましたが、なかなか興味深い展開になりました。

ご存知のように、朝鮮人参は17世紀~19世紀の日朝をめぐる極めて大きな政治・経済・医学の問題でした。幕府は朝鮮人参を買うために大量に流出していた銀を抑え込むために、朝鮮人参の国産化に躍起になります。それが成功したのが、オタネニンジン(御種人参)で、それを基にした人参座が江戸に出来たのが1763年(宝暦13年)、宝暦使行の前年ということになります。この件と鈴木伝蔵の事件が密接に関わることは間違いなく、真相はそれこそ公権力の暗部に直結する問題であったはずです。

なお、今回は時間がなくて討論できませんでしたが、十一回目の通信使行で最も大きな問題は、この使行での様々な出来事が朝鮮文士の間で伝えられ、本居宣長とも比肩される朝鮮知識人中の知識人、洪大容の『日東藻雅跋』に「斗南(細合半斎)の才」「蕉中(大典)の文」「蒹葭の画」「魯堂の風致」と形容され、北学実学の若手イデオローグ朴斉家や、後に書聖とたたえられた金正喜にも絶賛されたことです。宝暦使行以前にも高く評価された日本の文人が居ないわけではありませんでしたが(新井白石や雨森芳洲など)、逢ったこともない日本文士の詩文や画を評価するということなどほとんどありませんでした。ちなみにこの「斗南(細合半斎)の才」「蕉中(大典)の文」「蒹葭の画」「魯堂の風致」という言(特に「蒹葭の画」)からすれば、そうした高評価を朝鮮側に与えたのは、今回、金さんが本格的に紹介された木村蒹葭堂「蒹葭雅集図」が重要な役割を果たしたことと推定できます。もしそうだとすれば「蒹葭雅集図」は極めて重要な文献ということになりましょう。

こうした朝鮮における日本文人への高評価は、周知のように高橋博巳氏が「学芸共和国」という言葉で中・朝・日の交流を捉えているわけですが、この「学芸共和国」というタームの問題はともかくとして(「学芸共和国」という言葉に対しては今回金氏から批判がありました)、そこに十回までは無かった紐帯が日朝に生まれていたとすれば、それは何なのかは興味の持たれる問題です。

今回、金氏はこの現象の背景に、中・朝・日で身分差を越えた文士たちの交流が、平行現象として起きていた事実に注目されました。私もここが最も重要な点だと考えています。

たとえば、朝鮮時代の両班たちの歴史を紐解けば、そこに庶子(母親の身分が低い者)差別という問題が大きく横たわっていたことが確認できます。庶子の中で勝れた才能を持つ者が居ても、庶子ゆえに両班たちは彼らを認めませんでした。ところが、この宝暦使行の前後から、そのムードが変わります。名君として誉高い英祖と正祖(特に正祖)は庶子を重用しました。その背景には様々なことがありましたが、その一つに、この名君たちは出自で相当な苦労をしてきたからです。英祖の母は定かではありませんが、身分の低い女性(一説にはムスリ[水汲み女]とも言われます)であったことは間違いなく(あの、韓流ドラマのトンイですね)、その点を王に対峙する反対勢力から常に攻撃材料とされましたし、その英祖の孫であった正祖は、そうした英祖の苦渋を見続けて来た王だったからです。

また十八世紀後半、朝鮮は本気になって経済的基盤を立て直さないとならない状況に追い込まれていたからでもあります。それは同時期の中国や日本に比べて商業等の発達がかなり遅れていたからです。その中・日との違いは中国への燕行使行や日本への通信使行で朝鮮王朝に伝わっていたと考えられます。

たとえば、十八世紀後半、朝鮮随一の名文家と言われた朴趾源は『許生伝』(『熱河日記』)という面白い物語を遺していますが、この物語の主人公許生は朝鮮の経済的困窮を救うために、朝鮮が豊作の時に得た穀物を凶年の日本(長崎)に送って売りさばき巨額の富を得ます。こうした貿易王の話が朝鮮文士によって作られるという
ことは朝鮮王朝に中・日の経済的状況がかなり正確に伝わっていたからに他なりません。

そうした状況下、身分の高下を越えて人材を登用しないとならない時代を迎えていたのです。正祖の登用した庶子の文人たちが中心になって起こした北学派はまさにそうした人材中心の勢力でした。そして彼らは日本の文人たちの能力を正確に把握していたのです。人材で選ばれた者だからこそ、他の人材を見抜き、それを登用しようとします。血筋や縁故で選ばれた者はそれが出来ません。むしろそれを避けようとします。それが世の習いと言って良いでしょう。

日本も蒹葭堂サロンが象徴するように、身分を越えて交流できる場が此処かしこにありました。それは江戸時代の初期からそうで(遊郭がそもそもそうです)、江戸中期から後期にかけて更に広がりを見せていました。私が現在注目している江戸中後期の経済小説(含指南書・教訓書)などは当にそうしたごった煮の世界でして、上は幕府・大名から下は商人の手代まで、米相場に一喜一憂していたのです。

朝鮮時代後期と江戸時代の平行現象。私はその基盤に経済があると考えていますが、いずれにしても、極めて面白い問題で、燕行使行、朝鮮通信使行もその視角から見直してみるべきかと考えています。

なお、今回はラウンドテーブルとして自由な討論を目指したのですが、討論の時間は25分弱しか得られませんでした。ところが、この25分、かなり密度の濃い討論になったと思います。そうなったのは三人の発表直後、会場に集まった方に、質問・意見用ペーパーにかなり細かく文章を書き込んでいただいたからです。それを発表者が読みあげながら、答えられるところを答えてゆきました。その質問・意見用のペーパーは現在私の手元にありますが、そこに発表者が意見を書き込んで、それを質問者に戻すのも良いかも知れません。時間があれば、それを拡大コピーして会場にポスター発表のように貼り出したら、さらに多くの人と共有できて面白いかも知れません。

すなわち、ラウンドテーブルでなくて、筆談テーブルと言いましょうか。衆人環視の中で意見を言うのを得意としない日本人には向いている方法かも知れません。また韓国の学者には、日本語を話すことは出来なくても読める方がけっこう居られますから、そうした方たちにとっても良い方法でしょう。もしそうしたことが出来たら、その場は朝鮮通信使と日本文士の筆談の場さながらの光景を醸し出すかも知れません。

上掲の写真は、松本へ行く途中のスーパーあずさから見た甲府盆地です。遠くに雪をいただいた富士が見えます。














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