晴天の北京、視界(司会)は良好?-環境文学研究集会報告(1)-

IMG_3361[1].JPG
(写真は研究集会の会場、中国人民大学の本部棟、とにかく大きい)

11月26日(土)、北京の人民大学で、シンポジウム「日本と東アジアの〈環境文学〉」が開かれました。中国人民大学外国語学院と立教大学日本学研究所の共催で、小峯和明氏が研究代表者である「16世紀前後の日本と東アジアの〈環境文学〉をめぐる総合的比較研究主導する環境と文学」(科研基盤B)の一環として行われたものでもあります。

Pm2.5で騒がれている北京での環境文学研究会、この設定自体がなかなか刺激的です。

25日、羽田を発った飛行機の窓際を予約しました。久しぶりに行く北京の街並みの変貌ぶりを上空から観察しようと思ったわけです。ところが、中国大陸に近づくや何かモヤモヤしたものが下界に漂い始め、北京に近づく頃には下が全然見えません。街並みが見えないどころの問題でなく、はてさてあの中に突入するのかと思うといささか気が滅入って来ました。

いやいや、日本でちょっと高めのマスクを仕入れて来たから大丈夫と思い直したところ、北京空港で小峯さんから日本のマスクは全く役に立たないよとの一言。確かに中国の方のマスクを見ると、肌にぴたりと張り付いているばかりか、マスク脇に特殊フィルタ-装置らしきものを付けているではないですか。これですっかり意気消沈、これからの四日間が思いやられたわけです。

ところが、この25日と研究集会のあった26日は町全体が煙っていたのですが、この両日は研究会とその準備の為に室内の居た為、まったく苦にならず、図書館・研究所・遺跡等の調査の為に外に出た26日、27日は見事な快晴となりました。結果的に実に気持ちの良い4日間となったわけです。26日の朝から晩まで、延々と環境と文学について発表・質疑応答を繰り返したご利益かと思われたのでありました。

聞けば、もやっとするのは三日に一度程度とのこと。日本では北京はずっとPm2.5でやられていて、外国の要人が来る時だけ晴天になるなどという報道がされているわけですが、これが日本マスコミのいつもの空騒ぎであったわけでした(昔、韓国に初めて行った時なども、この空騒ぎで随分と振り回されました)。

それはともかく、環境と文学、これは小峯氏も言われるように、近代・現代に関しては様々に議論されているところですが、古典についてはまだまだのテーマです。しかしやらなくてはならない問題は、近現代よりむしろ古典に多いと感じます。

小峯氏は研究集会の冒頭講演の中で、次のように言われました。

1)環境文学の研究は、環境文学という特別なフィールドや枠組みを作るのではない。様々に偏在するそれらの問題を掘り起こし、環境というテーマから新たな一面を発見することに意義がある。
2)文学は環境(自然)から生み出されたものだが、文学から環境(自然)がまた生み出されていったという、両者には相互交錯・交流の歴史がある。
3)16世紀やその周辺を境に環境と文学の関係は大きく変わったのではないか。

どれも大切な視点ですが、とりわけ2)は重要です。コロンビア大のハルオ・シラネ氏が、人間が自然を基にして作りだした、人工的・人為的自然を二次的自然というタームでまとめたことは有名ですが、この二次的自然はまた一次的なものとして、本来の一次的自然に強く影響を与えることがある、ということです。つまり、シラネ氏の一次的・二次的は可逆的なものであってその一次・二次性は常に逆転する、ということになりましょう。

私は一次・二次(シラネ)、可逆性(小峯)の重要性を認識しつつ、更にこの二次的自然が文学と環境を架橋するものとして極めて重要だと考えています。一般に文学(人文科学)と環境(自然科学)は異なる領域であり遠い存在です。しかし、この二次的自然の中ではその二つが見事に融合した姿を見ることができます。

たとえば我々に最も身近な「食」。この「食」が環境と切り離せないことは言うまでもありません。また、文学においても「食」は重要なテーマで、晩年の正岡子規が滋養の為に大食した話とか、反対に『源氏物語』には光源氏の食事のシーンがないとか、様々な形で言及されているものです。

しかし、これらは文学や環境という枠組みから「食」を見ているのであって「食」は補助というか背景というか、まさに二次的な世界でしかありません。ところが、この二次的自然を「可能性の中心」(柄谷行人)として見据えますと、途端に魅力的かつ奇怪な融合体として表れて来るから不思議です。宮澤賢治が『春と修羅』で言った「因果交流電燈」の世界と言って良いかも知れません。

小峯さんの言われるように、環境と文学は、一つのフィールドや枠組みを作ることを意図しませんが、しかし、この二次的自然については極めて重要な領域として認識しておかなくてはならないでしょう。ちなみに、この問題は文学と環境のみではありません。昨今、佐和隆光氏が『経済学のすすめ-人文知と批判精神の復権』(岩波新書、2016年10月)で言っていることも全く同じです。

佐和氏は、昨今の経済学が数学の僕となり、数量的な似非科学と堕したことを痛烈に批判します。そしてこれを脱するためには、人文科学がその伝統として持つ文学的な世界の復権、特にユートピア(どこにもない世界)をその理想として掲げることの重要さを強く訴えます。

この佐和氏の言葉は我々文学研究者を元気にしてくれますが、一方、その文学研究者が果たしてこのユートピアを高々と掲げて来たのかと言えば心寒いものがあります。或いは、文学という枠組みを死守するために、文学内にしか通用しない美意識やテクニカルタームで塗り固めたり、或いは、文系基礎学という立場を重視するあまりに資料操作で事足れりとして来なかったでしょうか。

いずれにしても、諸科学を架橋するユートピアに最も近い場所に在るのが文学の持つ「虚」であると思います。昨今、早稲田大の河野貴美子氏が提唱している「文学」から「文」学へという視座(『日本「文」学史』、勉誠出版、2015年)も単に「文学」を解体するのではなく、この諸科学を架橋する「文」つまりユートピアの再構築だと私は捉えています。

さて、小峯さんの講演に触発されて前置きが長くなりましたが、本題は講演に続く、12名の方々のご発表です。その全ての方の司会(討論の司会を含む)とコメンテーターを私がやりました。朝、10時から夕方6時半まで、いやはやどう見ても無茶な設定です。どうしてそんなことになったのか、これは全体を統括した小峯さんに聞いてもらうしかありません(小峯さんはこうした無茶振りをけっこうされます、笑)。

でも、漫然と話を聞くよりこれは面白い体験でした。最後の4人がご発表された第三セクションでは、私がかなりハイ(灰ではありません)になって一番元気だったかも知れません。その様子については後日また(2)としてつなげます。


この記事へのコメント

最近の記事

最近のコメント