安宇植先生のご命日

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安宇植(あん・うしく)先生が亡くなられてから、明後日の22日で6年になります。
もう6年、まだ6年と言うべきでしょうか。

私が未熟ながらも日韓比較文学の研究を志し、下手くそながらも韓国語を勉強し続けているのは、まったくにおいて安さんお蔭です。
安さんとの出会いが無ければ、私はまだ日本文学の枠内で事足りていたはずです(そっちの方が良かったのでは、という声も聞こえてきそうですが・・・笑)。

安先生に初めてお会いしたのは、韓国のとある大学でのことでした。その大学総長のお招きによる昼食会に呼ばれた私は、大変緊張していました。何せ前の席がその総長先生だったからですが、私の隣席の名札を見ると「安宇植様」と書いてあります。どこかで聞いた名前だと思いまして、記憶をたどると思い当たりました。あの伝説の研究誌『批評空間』の座談で柄谷行人と丁々発止のやり取りをした朝鮮文学研究・紹介の第一人者、安宇植・・・。まさかとは思いましたが、少し遅れて現れた、いささかやぶにらみ風のとっつきにくそうな御仁に、恐る恐るお聞きしますと、当に安宇植その人ではありませんか。

その後のことは興奮していて、あまり覚えておりません。ただ、前にお座りの総長先生を放っておいて、安さんに矢継ぎ早の質問をしたことだけははっきり覚えています。

安さんは、私みたいな初学の徒の質問にも大変丁寧に答えてくださり、そんな私を憐れんでか親しみを感じられたのか、その後お宅まで招いてくださるようになりました。研究のサポートをしていただいたことは一度や二度ではありません。ソウル大の鄭炳説さんとの共編『韓国の古典小説』には序まで書いていただきました。さらには親しい韓国の大学をいくつも紹介しても下さりました。それがきっかけで、その大学と私の勤務先の茨城キリスト教大学では交流が種々行われるようになり、いま、本学の姉妹校中、最も盛んに交流している大学にまで関係が深まりました。

安さんのお宅で、お聞きした話は朝鮮の文学から政治、食べ物からパチンコ屋のオヤジの話に至るまで縦横無尽で、それこそ興味尽きないものばかりでしたが、安さんがいつも気にかけていたのは、朝鮮半島全体と日本の関係でした。

安さんのお宅に招かれた時に、こんなことがありました。私が著名な韓国文学者の話をし、その方の勝れた文学性を指摘しつつも、ちょっと不用意に、韓国では国を裏切ったという評価もあるようですが、安さんはどうお考えですかと言った時です。それまで和やかだったその場が一変して氷つきました。安さんは「それは絶対に違う」と強い口調で言い放ったからです。

後で調べて分かったことですが、その文学者は朝鮮半島の北と南を繋ぐために努力を重ね、そのために北と南の双方から、批判も多かったのです。安さんは、その文学者の苦しみと努力とを、自分の在り方に重ね合わせていたのだと思います。

そんなことがあっても、安さんと私の付き合いは変わらずに、お宅にもちょくちょく招いてくださりました。

安さんは学者としてもちろん勝れていますが、やはり朝鮮文学の日本への紹介者として記憶されると思います。
評伝『金史良-その抵抗の生涯』(1972年)を代表作とし、最後の翻訳である申京淑『母をおねがい』(2011年)までの五十冊を越える著作は今後も読み継がれるでしょう。

しかし、安さんが亡くなってから、韓国文学・文化の日本への紹介は勢いを失ったような気がします。大規模な書店に行っても、朝鮮文学のコーナーが年々縮小されているような印象です。何とかしないといけません。

私の朝鮮文学研究は齢四十五を越えてから始めたものです。よって未熟なものであることは間違いありません。恥をかくことも一向に減りません。六十近くになって恥をかくのはなかなか辛いことですねぇ。でも、そんな時、安さんの皺枯れつつも飄々とした励ましの声が聞こえてくる気がします。韓国古典小説選集、何とか出さないと、安さんにあの世で会えません、ね。

安さん、貴方が亡くなってから、朝鮮半島はますます混とんとしてきました。決して良い方向には向かっていません。しかし、貴方の縁で結ばれた日韓の若者たちが、お互いの絆を深めてもいます。どうか半島と列島を、そして東アジアを見守ってください。合掌。







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