これからは、タイそしてインドだ!(男色座談大いに盛り上がる)

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来春、発売予定の『男色のコミカライズとアジアの〈性〉』(仮題)の座談第二弾、「タイとインドの男色文化、その多様性をめぐって」が昨日、出版元の勉誠出版会議室で行われました。出席者は、

ナムティップ・メータセートさん(タイ国チュラーロンコーン大学准教授) 

ラージ・ラキ・センさん(インド・デリー大学出身、筑波大学院にて博士(文学)の学位取得、

            白百合女子大学非常勤講師)

坂東(丸尾)実子さん(東京外国語大学非常勤講師)

畑中千晶さん(敬愛大学教授)

染谷智幸(茨城キリスト教大学教授、司会)


の五人でした。

座談は第一弾「男色のノベライズ・コミカライズ」と同様、大いに盛り上がりました。


まず、なぜタイ、そしてインドなのか・・・

それには二つ理由があります。

一つは、タイ・インドが極めて多様な〈性〉を包括する世界であり、ニューハーフ・レディボーイ(タイ)やヒジュラ・ボリウッド(インド)といった面白い話題をたくさん日本へ投げかけて来ているからです(ボリウッドは「ハリウッド」と「ボンベイ(ムンバイの旧称)」の合成語)。

もう一つは、中国を中心とした東アジアにおける男色。これはある程度明らかになってきていますが、その中華文化圏から外れる東南アジア(タイ)、南アジア(インド)が独自の〈性〉に対する多様性を保持しており、日本の関西や九州を中心にした男色が、薩摩・琉球・台湾を経由して、そうした東南アジアや南アジアと繋がる可能性があるからです。


まぁ、理由なんてものは後で幾らでも付けられるから良いのですが、とにかく、いま、タイとインドが面白そうだという好奇心先行での企画でした。そして、この狙いはドンピシャでした。しかも、タイとインド、驚くべき多様性を保持しながらも、その内実はまるで正反対と言いましょうか、両者は不思議な対称性を示していることに、今回の座談で気付かされたのでした。


タイは、仏教という比較的〈性〉に対して寛容な宗教を基に、西欧の植民地化から逃れて平和裏に近代を迎えたこともあり、自然で柔らかな多様性を持った社会を作り上げて来たと言えます。それに対してインドは多くの人口(現12億、2020年台には中国を抜くとも)・民族・宗教(ヒンドゥー教を中心に、イスラム教・仏教・キリスト教、ジャイナ教など)・言語(公用語だけでも22語)がせめぎ合う中、イギリスによる植民地化の経験を通して、極めて複雑で相互屹立的な多様性を保持することになりました。


この多様性の違いが、両国の男色や同性愛的世界に大きく影響を与えています。それは両国の文学作品やマンガ、アニメ、映画の作品を検討することで浮かび上がって来ました。ここでは、その具体相について話す余裕がありませんので、詳しくは来春に出来あがる本をお読みくださればと存じます。ただ、私が過去にタイに行った時に感じたことと、それは見事に符合します。


もう七、八年も前のことになりますが、学生を連れて、タイの地方大学を訪問したことがありました。そこで日本語を学ぶ学生さんたちと交流をしました。


2月の下旬だったと思いますが、連日30度を越す暑さで、真冬から真夏へ飛び込んだような印象でした。そのタイの大学では、先生たちを始め学生さんたちが大歓迎してくださり、様々な交流行事が行われました。タイの学生さんたちは、日本への関心が非常に高くて、日本の文化、特に小説やマンガ・アニメについて詳しかった印象があります。


そうしたことをすこし予想した私達は、日本の伝統的なものを何かこちらから披露しようということで、俄か作りではありましたが、ソーラン節の躍りを練習して、タイの学生さんたちの前で披露いたしました。ところが、な、なんと、その大学ではソーラン節の倶楽部があって、我々の後にその躍りを披露して下さりました。どこから見ても、私達より数段上手かったその躍りを見ながら、私達の披露が先で良かった、と胸を撫で下ろしたことを今でもよく覚えています(笑)。


聞けば、タイではソーラン節大会が全国で行われていて、その大学のソーラン節部は毎年参加して良い成績をおさめているとのこと、外国における日本文化への関心、侮れないなと心底思った経験でした。


閑話休題、そのタイの学生さんたちと過ごす数日間、とても気になったことがありました。それは、タイの学生さんの中に、交流しながらも男性か女性か見分けがつかない方が何人も居たことでした。こちらから男性ですか、女性ですかとも聞けないものですから(失礼ですよね)、そのままでみんなで食事をしたり遊んだりしていたら、こちらも気にならなくなって自然と溶け込んでいったのでした。日本の学生も、私と同じように、遊びながら違和感がなくなっていったと言っていました。


今回の座談で、その点をナムティップさんにお聞きしたところ、タイでそうしたことは普通で、相手のセクシュアリティが気になることもあるけど、それは自然に受け留めて、相互の関係の中に溶け込んでいるのだということでした。ちょっとうらやましいですね。日本だとすぐに区別して微妙な距離感を残し続けますから。。。


日本というのは、欧米のような強い差別ということをしない国だと思いますが、区別をしますね。この区別が厄介で、種々問題を生んでいると感じます。そしてこの区別を、当然なこと自然なことだと勘違いしている方たちがけっこう多い。つまり自覚症状がない。これが更に問題になると思います。日本で大事なのは差別でなく区別です。


一方、ラージさんのインドの話は強烈でした。ナムティップさんの話が柔らかな春の光とすれば、ラージさんのお話は強烈な真夏の陽射しというか、閃光という印象でした。その具体的な中身もここでお話しする余裕はないのですが、ラージさんが取り上げたのは、かつてのインドで差別を受けながらも認められていた同性愛社会が、19世紀中盤のソドミー法(特定の性行為を犯罪とする法律)のイギリスからの移植によって壊滅したこと、現在でも続くその差別に対して、小説や映画がその表現の中で闘いを続けていることでした。特にインドのメインストリームの映画(ボリウッド)でなく、実験的な映画における同性愛者差別の描かれ方が、強く私の印象に残りました。これらの映画は一度じっくりと鑑賞する必要があると思いました。


なお、ラージさんのお話には時折、たいへん流暢な英語が挟まれます。その発音に聴き惚れながら、イギリスとインドの関係が極めてリアルなものとしてこちらの胸に迫ってきたことも忘れられません。


いずれにしても、今回のナムティップさん、ラージさんのお話を通して、タイとインドへ、特にまだインドへは一度も行ったことがありませんので、ぜひ行ってみたくなりました。今回の座談でラージさんのお話から感じたものを、実感として受けとめてみたいと強く感じた次第です。


来年、遅くとも再来年にはぜひインドを訪ねたいと個人的には考えています。


それから、最後に、今回の座談で特に印象深かった点をもう一つ。


それは坂東さんが、文学研究者よ腐女子たれ!と述べた点です(笑)

(そこまでは坂東さん、言ってなかったかも知れませんが、私はそう受けとめました、はい)


というのは、坂東さんが授業で文学作品を腐女子読みしてみせる時、異様に目を輝かせる学生が居るとのこと。文学が好きで文学部に入ってきたはずなのに、多くの学生がどんどん興味を失って討ち死にしていく中(責任の多くは教師にありますね)、この「腐」読みこそが活性剤になるというお話でした。


この「腐」読みとはBL読みであることはもちろんですが、もう一つ二次創作としての読み方ですね。作品を勝手に発展させて妄想することです。前回の座談会のモウソーチク(妄想竹)の大竹さんとも繋がります。


私の所属する日本近世文学などが典型ですが、古典はその時代の背景・文化を理解する、つまり作品が生まれた時代に置きなおしてこそ真の理解に達するということが良く言われ、現在もそれが主流です。しかし、分からないでもないのですが、それが問題なんでしょね。そういうこと言うから作品が詰まらなくなるというか、自由な読みが損なわれると言いますか。


要は面白いかどうかですね。どっちの読み方が正しいかどうか、ではなくて、どっちの読み方に学生がワクワクするか、なんでしょう。ここに文学という学問の面白さがあるのかも知れません。


いずれにしても、BLというのは思った以上に様々な問題を文学研究に投げかけてくるものだと思います。これからもその線を外さずに注目していきたいと思います。


なお、座談に同席され、今回の本の編者でもある畑中千晶さんが、西鶴研究会のブログにこの座談会についての報告を書いて居られます。

仏教の前世やカルマについての話など、私とは違った視点からの説明が多々あって、これまた面白いと思います。

ぜひご一読を。。。


http://kasamashoin.jp/saikaku/


写真はタイ、アユタヤのワット・プラ・ラームのライトアップ(著者撮影)です。








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