二次創作は虹創作-『平家公達草紙』に魅せられて

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遥か昔、小学三年生か四年生の時だったと思います。
夏休みの作文(宿題)で「休み中に出会った人」というのがありました。

最初、友だちと行ったプールで出会った、友だちの友だちのことを書こうかと思ったのですが、フツーの子ばかりだったから、べつに面白くもなんともありません。漫画のおそ松くんや、そこに出て来るチビ太のような面白いヤツがいれば別ですが、そんな子は居ません(しかし、同じクラスにハタ坊に似た女の子は居たんです!・・・でも、さすがにこれは書けませんでしたが・・・)。

考えあぐねた末、先生受けを狙って、休み中のラジオ体操の時に、いつも挨拶をしてくれるお爺さんが居たので、その方のことを書こうと思いました。ところが、書き始めてすぐに書くことがなくなりました。挨拶しかしてないから当たり前です。そこでちょっと盛りまして、世間話をしたことにして、学校のこと、野球やサッカーのことなど、お爺さんとの会話を書いたんですね。そうしたら子供ながらに興に乗るって言うんでしょうか、急に原稿用紙のマスが埋まり始めました。そうなったらもう止まりません。日曜日にお爺さんの家に呼ばれるわ、お婆さんやお嬢さん(なぜか小学生)は登場するわ、もう書きたい放題です。挙句の果ては、そのお爺さんをかつて戦場をかけめぐった、勇敢な軍人に仕立てあげまして、僕の前で裸になり、脇腹を貫通した鉄砲の弾の痕を見せてくれるなんてことにしてしまいました(これは銭湯でそうしたオジサンに本当に会いまして、その時の話を合体させたのです)。そして、お別れにお爺さんの家を去りながら振り返ると、お爺さんがじっとこっちを見て手を振っている。こんなところでジ・エンドとあいなりました。

何日も書けなくて苦しんだ作文が、一時間程度で一挙に出来あがりました。夏休みも残り少なかったので、そのまま提出してしまいましたが、さあ出してから、先生がこれを読むことを考えると、急に気が気でなくなりました。ひょっとして、あのお爺さんのこと先生は知っているんじゃないか、この作文のことを尋ねたりしたら、これはまずいと。

結局、それは杞憂に終わりまして、先生から戻ってきた作文には最高点の五重丸と「すてきなお爺さんに出会えて良かったね」との一言がありました。申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちで胸がいっぱいになったのですが、妄想することの楽しさをこの時に覚えてしまったと思います。

今回、『平家公達草紙』(櫻井陽子、鈴木裕子、渡邉裕美子著、笠間書院刊)を拝読しまして、なぜかこのことを思い出しました。平家の公達たちを二次創作する貴族のお姫様たちや女房たちの心情に思いを馳せると、どうしてもこの偽作文の楽しさと恥ずかしさが浮かんでくるのです。(おそらく、実際に起きたことを書かないといけない作文に、創作を持ちこんでしまったところが、二次創作的に響くのでしょう)

とくにこの『平家公達草紙』は、三話目の「恋のかたち」の冒頭、朝靄の中に見え隠れする維盛のように、物語が切れ切れになっていますね。これが実に美しく、想像力を掻き立てるところだと思います。つまり、二次創作とは二次で完結せずに、三次四次へと繋がって行く、そんな開かれた物語だろうと思うのです。

この『平家公達草紙』で私がもっとも気に入ったのは、やはり三作目です。維盛を見る同性の隆房の視線は、まるで『ヴェニスに死す』で美少年タージオを見つめるアッシェンバッハです。とくに維盛について隆房が「つくろふ所なき、朝けの姿しも、いみじうきよらなる」と言っているところですね。このいささか無防備で、寝起きの香りがほのかに残る美しさを、感じ取るのは女性ではありますまい。ひょっとして作者に男が混じっているのではありますまいか。少なくとも男をよく知る女房でしょうね。

それは想像の及ばぬところですが、この維盛と隆房、歳が十歳ほど離れています。加えて歳上の隆房が維盛にぞっこんということですから、これは後世の武士感覚からすれば、完全に念者と若衆です。

解説では『源氏物語』との関係を強調されてましたが、それとともに、やはりもののふ(これ最近、元都知事が使っていたのであまり使いたくない言葉ですが)の威儀と綺羅というものがありましょう。時代でしょうか。

ところで、二次創作が三次四次に繋がるという話をしましたが、これは物語というより、連歌・連句の面白さですね。後に誰かが繋げることを前提にして創作する面白さです。

いささか怨みがましい話ですが、前にこんなことがありました。

西鶴に関心のある研究者があつまる西鶴研究会の懇親会でのこと。西鶴の研究者が集まっているのだから、連句でも巻こうと私が言い出して、下手くそな発句を作りまして回したところ、誰も付けてくれません。みなさん、私は下手ですから、式目が分かりませんからと逃げられて、結局沙汰やみになってしまいました。後日の研究会でもそれを試みたところ、同じ状況で、結局あきらめてしまったということがありました。

でも変ですよねぇ。二万翁(一昼夜二万三千五百句を作ったことによる)の研究をしている人たちが、連句の一句や二句を作れないというのは。別に下手でも良いのです。いや下手がイイ。西鶴の師匠である宗因も「上手は上手、下手は下手、いずれを是とわきまえず、好いたことして遊ぶにはしかじ」(『阿蘭陀丸二番船』)と言ってます。

どうも学者っていうのは遊び心がないというか、☓☓まじめって言うのかしらん。その点、やはり分かる人は分かると言いますか。

いつぞやリンボウ先生こと林望さんと寿司を食べに行きまして、ただ食べるんじゃ面白くないから、ネタを詠み込んだ俳句を作れたらそれを注文できる、というような遊びをやりました。そしたら、これが上手く作れないもので、せっかく出来ても美味しい寿司を味わえません(次の句を考えていますので)。それで二人で大笑いして「やーめた」にしたのですが、これはこれで実に楽しい経験だったわけですね。ちなみに拙句は「ウニ喰いねぇ江戸っ子だってねウニ喰いねぇ」(笑、これ何でも入れられます)

いささか話が脱線しましたが、研究・学問と言っても文学ですから、ことばの遊びができないといけないというか、文学が分からないでのはないか、と思いますよ。そういう研究者、最近多くありません?

そういう意味でも、この『平家公達草紙』やBLを始めとする漫画アニメなど、いま話題になりつつある二次創作は注目すべきです。そこに込められた楽しさと恥ずかしさを研究者も共有すべきでしょう。

昨年の12月にタイとインドの研究者を交えて男色座談をやりました時に、近代文学研究者の坂東実子さんの言われたことが、今でも印象として残っています。それは、教室の学生たち(とくに女性たち)が、BLの二次創作的読みと言うんでしょうか、自由に羽を広げて作品を解釈するらしいのですが、そうした発想を失わせてはならないと言っておられ、はなはだ共感いたしました。その様子は12月28日のブログに載っています。


このBLの世界と『平家公達草紙』の世界、BL読みする腐女子と平家を男色読みする姫御前、女房たちは見事に重なります。

ちなみに、BLとLGBTはスペルが重なるように支え合うものだと思います。LGBTの象徴がレインボウフラッグだとすると、二次創作は虹創作でもありますね。(うーむ、座布団まではいかないなぁ)















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