中沢新一・小澤實『俳句の海に潜る』を読む

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中沢新一さんと小澤實さんの共著『俳句の海に潜る』([株]KADOKAWA、2016年)を取り上げてみます。
帯にある「アースダイバー」という言葉については、中沢さんが色々なところで使われていて、私も今年の1月9日のブログでちょっと拝借いたしました。その視点から日本の俳句に切り込んだのが、今回の本ということになります。

俳句人口はいまどのくらいでしょうか。ちょっと昔は百万人と言われ、現在では五百万人とも言われますが、プレバト(毎日放送)の夏井いつき先生の奮闘もあって、急速に増えていることは間違いないでしょうが、これはちょっと「盛り」すぎでしょう。

私も下手の横好きで、俳句をちょっと作ったりします。それは、学生時代に松尾芭蕉を追い掛けて、東北・北陸地方を行脚したからですね。私の研究対象の一つである井原西鶴も俳句(今の言い方で言えば、ですが。江戸時代は俳諧です)をたくさん作っています。

西鶴は普通、江戸時代の小説家とみなされますが、西鶴本人は小説家の意識はなかったはずです。彼自身の意識としては、俳諧師で小説は余技というか趣味の世界です(だから、面白いものが出来たと言われます)。

さて、この中沢・小澤さんのご本ですが・・・(あと大沢さんが加わってたら面白かったのですが・・・失礼!)

俳句に関する著作というのは、それこそ百万・五百万でしょうか。当然、それらを全て見てはいないのですが、私の読んだ俳句の本の中でも、今回のこの本は特筆すべき内容を持っていて、新しい視点に満ちています。

俳句への興味がある無しに関わらず、お薦めしたいと思います。いや、無い方の方が良いかも知れません。その理由は、この本を読めば、自分は、なぜ俳句に興味が持てなかったのかがすぐ分かるからです。そして、どういう風に俳句を見れば、俄然面白く見えてくるのか、その回路の繋ぎ方を上手く説明してくれています。

この本で中沢さんが強調しているのは、万物を「人間の目でみるな」ということ、つまり俳句とは人間の眼でモノを見る世界ではなくて、モノから人間を始めとする万物を見る、いわゆるアニミズムの産物だということです。これはかなり重要な指摘です。つまり、ぶっちゃけて言ってしまうと、俳句は従来から言われている客観写生ではない、ということですね。

このブログをご覧いただいている方はお分かりかと思いますが、私の昨今の日本文化・文学へのアプローチの仕方は、アジアや東アジアの視点から日本の文化・文学を相対化することにあります。相対化というと、些かややこしいかも知れませんが、要するに、アジアや東アジアからみると、日本の文化や文学は、いままで考えていたのと相当に違って見えて来ますよーということです。

そのアジアや東アジアの視点から、日本の俳句を見ると、中沢さんの言われる通りなのです。日本の俳句には「人間」が居ない、というとちょっと言い過ぎですが、存在感が薄いのです。たとえば、東洋文庫に『朝鮮歳時記』という本がありますので、見てみてください。ここには朝鮮の歳時記の幾つかが載っていますが、日本の歳時記とはかなり違います。

朝鮮(韓国)の歳時記とは人間中心の歳時記ならぬ祭事記なんですね。世界が人間中心に構成されてます。日本の歳時記は、項目で言うと、人間よりも「時候、地理、動物、植物」などが中心ですね。人間が出て来る項目は「生活、行事」ですが、それらも人間中心ではなくて、自然が中心です。

この違いは日本と朝鮮(韓国)の様々な文化・文学の局面で見られます。たとえば、日本の俳句に相当するものとして、朝鮮(韓国)の時調(シジョ)があります。この時調は俳句と同じく短詩です(ただし、長さとしては俳句の三倍になります)。この時調も人間が中心で、日本の俳句のように植物や動物が中心になることはあまりありません。

これは中国にも大方言えることです。中沢さんは今回の本で、日本文化の背景に仏教があることを重視していますが、中国はやはり儒教ですね。仏教が山川草木悉皆成仏であるとすると、儒教は仁義礼智信の五常、つまり人間中心の思想です。

ただ、中沢さんのお話には、このアジアの視点がちょっと弱いかと思います。それが表れているのが、日本を海の視点から捉えていて、それは良いのですが、その海を山と分けて考えているところです。海と分けて考えるべきは山でなく陸です。同じ山でも日本の山と大陸の山では違います。日本の山は、熊野信仰が象徴的なように、海と極めて近いもので、一体として考えるべきものです。

この、海と山を繋ぐものが、本ブログの3月5日の記事(「日本は地下水に浮かぶ船」)に書きましたように地下水です。大陸にも地下水はありますが、日本ほど豊富ではありません。その地下水の姿が日本の自然を形作っていると思います。

そう考えてみると、俳句で地下水を詠んだものはまだ余り見かけませんね。歳時記を見ても「井戸さらえ」「井戸替え」「泉」ぐらいでしょうか。あまり馴染みがないのですが「木の根開き」という季語もありますが(雪国の春を伝える季語で、木が地下水を吸い上げることから、木の回りの雪だけが先に解けることを言います)、あまりないですね。

地下水を詠んだ俳句を詠むと、これから新しい境地を開けるかも知れませんね。





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