朝鮮通信使が見た日本の男色(男色講座3)

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朝鮮通信使は、江戸時代に12回、日本を訪れています。

その9回目の享保4年(1719)は極めて重要な回です。理由は二つ。一つは雨森芳洲が通信使と同行したからです。芳洲は木下順庵門下で同門の新井白石と並び称せられた秀才です。対馬藩の藩儒として朝鮮との間で翻訳・論著・外交に活躍いたしました。

また彼は語学の天才で、当時としては珍しく中国語・朝鮮語に堪能でした。

普通、通信使と日本の文士との交流は漢文の筆談で行われましたが、彼は朝鮮語ができましたので、直接話をすることも多かったでしょう。よって別の文士との交流より量的にも内容としても深い交流が可能だったと思われます。よって、この9回目の通信使行には他の回よりも深い、日朝の交流があったと考えられるのです。

もう一つは、その深い交流の表れかと考えられますが、通信使から見た日本の男色の姿が書かれたのと、それに対する批判があったことです。

次の文章は、この回の通信使として来日した申維翰が著した『海游録』(附編、日本聞見雑録)に載るものです。

>日本の男娼の艶は、女色に倍する。人の気にいられ人を惑わすこともまた、女色に倍する。国中の男児にして十四、五歳以上の容色絶美なる物、つややかなる髪は丱(あげまき)に結い、顔は脂粉で化粧し、被うに彩錦衣をもってし、香麝、珍佩、修飾の具だけでも千金に値いする。

>国君をはじめ、富豪、庶人でも、みな財をつぎこんでこれを蓄え、坐臥出入のときは必ず随わせ、耽溺して飽くことがない。あるいは、外に心が移れば嫉妬して人を殺すことさえある。その国俗として、人の妻妾を窃取する事は易いが、男娼には主があり、あえてこれに話しかけたり、笑いかけることもできない。

>雨森東が作った文藁に、貴人繁華の物を叙べたところがあり、曰く、「左蒨裙而右戀丱」と。余はこれを差して曰く、「この戀丱というのは、いわゆる男娼のことか」。答えて曰く、「然り」。余曰く、「貴国の俗は奇怪きわまる。男女の情欲は、ほんらい天地から出た生々の理であり、四海に共通する。世間に、どうしてひとり陽だけがあって陰なく、しかして相感じ相悦びうることがあろうか」。雨森は笑って曰く、「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」。雨森如き人でも、言うところがなおこのようである。国俗の迷い惑うさまを知るべし。(姜在彦『海游録』東洋文庫252より引用)

*「香麝」は麝香(じゃこう)、香の原料のこと、またそれを基にした香のこと。
*「珍佩」はちんぱい。腰につける美しい飾りのこと。玉佩とも。
*「雨森東」雨森芳洲のこと。東は東五郎(通称)のこと。漢名風に「雨森東」と名乗った。
*「左蒨裙而右戀丱」左に蒨(あかねいろ)の裙(もすそ)、右に戀(美しい)丱(あげまき、髪を左右に分けて結った子供)

この短い文章には驚くべきことがたくさん書かれています。

1)日本の男娼(男色の相手)は女色(この場合は遊女)に倍するほど居ること。
2)その男娼に「国君(国主)」から庶民にいたるまで、皆狂奔していること。
3)人の妻を盗むことは簡単だが、男色の相手には声をかけることばかりか、微笑むことさえできないこと。
4)雨森芳洲ほどの知識人、しかも儒学者がこの風俗を否定しなかったこと。
5)そればかりか、通信使の申維翰に向かって、貴殿がこの男色の楽しみを知らないのは極めて残念と言い放ったこと。

雨森芳洲と言えば当時抜きん出た知識人で、今で言えば地方国立大学の総長、いやもっとでしょうね。東大の総長、文部科学大臣にも成ろうかといった方です。そんな方が言い放った言葉があまりに強烈だったということなんですね。
(でも、江戸時代における〈性〉の実体を知れば、これは当たり前のフツーの発言であったことが分かりますが)

それにしても、この申維翰さん、どこからこの情報を仕入れたのでしょうか。通信使のことを調べてみると分かることですが、通信使は宿所から簡単に外には出られませんでした。日本側からの詩作に応じて自らも詩作や文章を書かなくてはならなかった、ということもありますが、何がしかのトラブルが起きるとまずいと日朝の政府、特に日本の幕府が考えたのでしょう。

事実、11回目の通信使行には通信使が日本人同行者によって殺されるという事件が起きました。表向きは個人的な恨みということになっていますが、実際は朝鮮人参の密売に絡んだ、かなりスキャンダルな事件だったようですが。。。

ま、それはともかく、外出して庶民の生活を覗いて来るというのは、おいそれとは出来なかったと思われます(身分にもよりますが)。ただ、大坂を通った時に遊女屋の繁栄ぶりを申維翰は書いていますから、通り沿いやそれに近い場所の観察は出来たものと推量されます。

いずれにしても、この男娼の話は見聞もあるでしょうが、雨森芳洲からの話もあったでしょう。それは「その国俗として、人の妻妾を窃取する事は易いが、男娼には主があり、あえてこれに話しかけたり、笑いかけることもできない」と書いてあることです。これは武家の衆道のことで、市井の男娼とは違います。こうした武家衆道の実体を実見する機会は無かったでしょうから、芳洲から聞かされた話なのでしょう。

いずれにしても、この文献から日朝の違いが良く分かって面白いものだと思います。

ちなみに朝鮮に男色がないわけではありません。表には現れてきませんが、けっこうあったと思われます。当然、レズビアンも。その話はまたいずれ。。。

写真は、我家で預かっている若衆人形の辰弥君とブライス人形のハナさんです。
「左蒨裙而右戀丱」という感じで撮ってみたのですが、ちょっと合わないかも知れませんね(笑)
日本の若衆と朝鮮の妓生が出会ったら、こんな感じか・・・うーむ、ちょっと無理がありますね。
お二方に失礼。


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