次回、7月7日(七夕)は大竹さん・あんどうさんのゲストスピーチです(第4回男色講座)
次回、7月7日(金曜日・奇しくも七夕)は大竹直子さん、あんどうれいさんをゲストに招いての男色講座となります。場所は青山学院大学11号館の1135教室、時間は3時限目(午後1時20分開始)です。授業を取っていない学生さん等、歓迎いたしますのでご来場ください。
さて、それに備えてということもありまして、先週の金曜日は大竹さんとあんどうさんの作品をプリントして、受講生にお配りし、その感想・批評と質問を書いて提出してもらいました。
大竹直子「傘もちてぬるゝ身」
あんどうれい「此道にいろはにほへと」
(共に『男色大鑑(無惨編)』より)
*ちなみに、この両作、無惨編つまり最終編の最後を飾る二篇なんですね。順番はあんどうさんが先、最後が大竹さん。つまり連歌・連句で言うと、あんどうさんが「花の座」、大竹さんが「挙句」ということになります。いやはや素晴らしい・・・。
その時間、学生のみなさんをちょっと観察していたのですが、みなさん真剣に作品を鑑賞していたのにはちょっと驚きました。授業が終わっても感想等を書ききれない学生は、10分以上も教室でねばっていて(休み時間は15分あります)、提出は来週で良いからと退出を促したほどでした。
前に、私の書いた文章を読ませて、その感想と批評も書いてもらいましたが、これほどの真剣さは無かったように思います。
時代なんですね。漫画というものをどう読み解くか、その姿勢が私たちの世代より遥かに出来ています。
すこし前のことになりますが、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』のアニメを学生に見せて、その映像化・アニメ化についてちょっと議論をしたことがありました。
その過程で、ある学生が私にこんな質問をしました。それは、タイタニック号の事故で死んだ女の子が、銀河鉄道に乗り込んできた時に、その女の子の服の色が一瞬変わるのですが、これは何を意味しているのでしょうか、というものでした。
私は、授業で扱うということもあって、このアニメを何回も見ているのですが、全く気付かなかったのですが、確かにその場面をスローにして見ると、一瞬色が変わります。意図的なものか、そうでないのかは分かりませんが、それを見逃さなかった学生の眼、その色彩感覚に驚いたことがあります。
我々の世代と違った世界を彼らは見ているのではないか。。。
その後も、これと同じような〈事件〉は多々起きていまして、私はいつも驚かされています。
後世恐るべしというのは、何も将棋の藤井さんのような才能の出現だけでなく、世代そのものの感性の変化です。ここを理解していない〈知〉や〈教養〉というのは、西鶴の前の仮名草子、黒澤映画の前の日本映画、蒸気船の前の帆船でしかありません。(むろん仮名草子や帆船には独自性もありますが)
大竹直子さんがツイッターで、『男色大鑑』中の作品全て(40作品)をコミカライズすべきだとおっしゃっていましたが、私も同感、と同時に近い将来、西鶴作品の多くはコミカライズされると思います。いや、西鶴だけでなく、日本の古典の多くはコミカライズされて若い人たちに読まれる時代がすぐ来るだろうと思います。
そうなった時、古典のイメージは大きく変化するだろうと思います。いやいや、それは変化などという生ぬるいものでなく、古典の再編成と言って良いものです。従来のカノン(聖典)とはずいぶんと違ったものがずらーっと並ぶことになりましょう。
今回の『男色大鑑』がその良い例で、西鶴作品の評価で冷遇されてきたのが、この作品であることは前にも述べましたが、コミックでこれだけ力を入れて(連続三冊)、作成された西鶴作品は他にありません。つまりひっくり返っているのです。
実は、けっこう誤解されてますが、『あさきゆめみし』の原作『源氏物語』は、江戸時代まであまり読まれて来なかったのです。『源氏物語』は日本を代表する古典だと言われていますが、それは名目上ということです。だいたい全部読んだ人ってどれくらい居るでしょうか。
とにかく長すぎますね。江戸時代までの人たちも暇じゃありませんし、夜は暗くて本などなかなか読めませんでした。結果、『源氏』よりも『伊勢物語』などの短い物語や、一章一章が独立した『徒然草』などが多く読まれたのです。
ところが、漫画になれば『あさきゆめみし』(13巻)のように一気に読めますね。『男色大鑑』も西鶴作品中最も大部です。つまりコミカライズには量に対する挑戦と緩和があるのです。
また、LGBTの問題もそうですが、ここのところ人々の意識が大きく変わり始めています。そうした変化はいままで埋もれていた作品を歴史の片隅から呼び戻すことになるでしょう。
では、岩波書店から出版された『日本古典文学大系』『新日本古典文学大系』の次は『漫画日本古典文学大系』でしょうか?
それは有り得ませんね。そこまでは行かないでしょう、まだ。でも、次に編まれる古典文学大系、古典全集は、そうしたコミカライズによって浮上した作品をキャッチアップするはずです。そうでないと売れませんから。
そして、従来挿絵として組まれていた「絵」ももっと大きく組まれるはずです。いまの大系・全集では「挿絵」扱いですが、原本を見ればわかるように「絵」は丁(ページ)いっぱいに描かれている「絵」で、現代一般で認識されている「挿絵」ではありません。現在の小説に比べて「絵」の比重が大きいのです。ここが違うと作品の印象は大きく違ってきます。
いずれにしても、つぎの体系・全集の時には『男色大鑑』が入ることだけは間違いないでしょうね。
今回は、男色の話でなく、コミカライズの話になりました。あしからず。。。
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