メスのオス化
少し前に、環境ホルモン等の問題で、オスのメス化が問題になったことがありました。その時は「草食男子」などの問題もあって、面白おかしくマスコミ等でも取り上げられ、そして忘れ去られてしまった印象があります。しかし、この問題は極めて重要だと改めて思います。そして大切なのは、やはり「想像力」だと思います。
この一月に発売された月刊「サイゾー」という雑誌に私のインタビューが載りました。テーマは「頭に効くSEX新論」、その中の「直政は家康に抱かれて出世した?のし上がるための男色処世術」というところ。戦国から江戸初期の男色について、日頃思っていることをお話ししました。
完成して送られてきた雑誌を妻と娘に見せたところ、読みもせずに、あーあ、相変わらずだね、という顔をされました(笑)。しかし、この雑誌、知る人ぞ知る、けっこう硬派なんですね。表面だけをみると、コンビニの18禁の棚に置かれそうな雰囲気ですが、中身はけっこう大真面目です。今回、インタビューに答えることにしたのも、それがあるからです。
私のインタビューの内容は、本雑誌を手に取っていただくことにして、ここでちょっと触れたいのは、今回、雑誌のインタビューを受けて感じたことです。
インタビューは、女性の編集者の方(けっこう真面目そうで素敵な方でしたが)とライターの男性がいらして、一時間半程度だったでしょうか。その中で、幾つかこちらからもお聞きしたことがありました。それはこの雑誌の読者層です。私の印象としてはほとんど男性だろうと思っていたのですが、すでに女性の読者が四割を越えているとのことでした。
すかさず私は、それならこういうグラビア的な表紙じゃなくって、もっと女性ウケをねらったものにしたら良いんじゃないですかと言ったところ、それはすでに試みたのだけど、販売数は一挙に減ってしまったとのことでした。そしてそれは、男性読者の数が減ったのではなくて、女性読者も離れた可能性があるとのことでした。
時間がなかったもので、この話はそのままにして、本筋のインタビューに戻ったわけですが、その後、勤務先の大学で、カンボジアの観音美術などを研究されている宮﨑晶子先生にこの話を振ったところ、それはキャリアウーマンがオジサン化しているということですよ、と言われました。宮﨑先生によれば、昨今、男性に伍して仕事をバリバリこなす女性たちに、髭が生え始めているとのこと。そうした女性たちにとっては、乙女チックな可愛いものじゃなくて、オジサンたちが好むようなグラビアみたいなものがストレス発散に繋がっているんじゃないかとのことでした。
なるほど!と、思わず膝を打ちました(笑)。それでネット等で調べてみると、そうした記事が陸続と出ていることに気付きました。昨今の女性は、髭だけじゃなくて頭も薄くなってきているらしいですね(笑)。
男性が女性化しているだけじゃなく、女性も男性化している。重要なのは、それを目新しい流行の目で見るのではなくて、広く永い文化・歴史の目で見ることでしょう。
まず、広く文化的に見渡すと、先のサイゾーの読者層の問題もそうですが、昨今、女性たちが自分の「性」を追究しはじめていることが目立ちます。私のブログでも多く取り上げている「男色」に関心を持つ女性たちもそうですし、BLもそうです。また、春画の展示会に女性たちが多く訪れているのも同じでしょう。いままで「性」は主に男性のものでしたが、これが女性側にどんどんシフトをし始めています。
この「性」の追究は、「性」を語るという点にも求められます。女性たちが「性」を語ることをタブー視しなくなりましたね。私の周囲にいる大学生を見てもそれを強く感じます。
そうした点から見た時、隣国の慰安婦の方たちの訴えも同じ目線から見る必要があると思います。もちろん、政治的に様々な問題を含みますし、日本側から反発の声が上がるのも理由のあることです。しかし、そうした政治的な問題とは別個に、今までの社会が大きく変わろうとしているという視点でこの問題も見る必要があります。そうした柔らかい思考を持たないと、思いもよらない雁字搦めの状況に追い込まれてしまうと思います。
ただ大事はなのは、従来のウーマンリブ運動のように女性を特化・特権化するのでなく、やはり男性を巻き込んでのボーダレスの状況を考えて行くことだと思います。
この男女のボーダレス化は、ここ二十年で急速に進みつつありますが、今後二十年、三十年と経った後、それは更に劇的に変化する可能性がありますね。この状況を想像力を逞しくして見通すことがいま一番肝要なことかと思います。
トイレは男女別ではなくなるでしょう(すでにアメリカでは始まっています)。ということは男性は立ったまま出来なくなります(笑)。家事や子育てはむろん男性が加わることになりますし、パイロットだけでなく、あらゆる機械の操縦・管理に女性が加わることが普通になるでしょう。また犯罪の主役に女性が上がることも増えるはずです。女性=か弱い=男性が守る、という発想は完全に死に絶えるでしょうね。
上記の女性=か弱いという発想は、男女の体力差に根っこがありますが、この差はどんどん縮まるだろうと思います。いま、女性のマラソンランナーは42キロを二時間半程度で走るわけですが、男性でそれだけ走れる人はほとんど居ないはずですね。男女差は残るでしょうけど、それは一般的な差ではなくなるだろうと思います。
それから、この男女のボーダレスな状況を考える時に参考になるのが、過去、特に日本で言えば、江戸時代の状況です。この時代は男女という二元論ではなくて、もう少し多様な棲み分け、区分けがあったと思います。その多様な在り方を全体として捉えることが大事です。
よく、江戸時代の男色と現代の同性愛は同じですか、違うとすればどう違うのですか、と質問されることがあります。その差が気になることも分かりますし、その問題点も大事ですが、もっと大事なのは、男色が江戸時代の「性」の問題としてどう組み込まれていたのか、また現代の同性愛が今の時代にどう組み込まれているのか、つまり「構造」の問題として、両者を捉えることです。
この「構造」を抜きにして両者を比較してもほとんど意味がありません。すなわち、現代の男女のボーダレス化も、それを組み込んでいる世界の「構造」の変化だということです。それを見るためには、日本だけでなく世界に目を向けなくてはならないことは言うまでもありません。
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