第二回、若衆文化研究会、おおいに盛り上がりました!

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(とみ新蔵『無明逆流れ』2006年。表題作とともに、南条範夫原作の『美童記』を併載する)

一昨日に行われました若衆文化研究会(第二回)は、盛況のうちに終了しました。
参加者は約30人で会場はほぼ満杯、有難うございました。
研究会の後の懇親会も、またまた談論風発、おおいに盛り上がりました。

今回の「おはなし」は以下の四人の方にお願いいたしました。どなたも個性的で若衆研らしい「腐」に満ちておりましたね。

〈おはなし〉
1)坂東実子さんによる講話
 テーマ「岡本綺堂『鳥辺山心中』(1915年)をめぐって」        
2)大竹直子さんによる講話
 テーマ「男同士の恋文、女子ならドン引き!でも、そこがいい!!」
3)あんどうれいさんによる講話
 テーマ「近松の『碁盤太平記』と忠臣蔵」
4)染谷智幸による講話
 テーマ「分水嶺としての浄瑠璃競作-西鶴と近松」

まず、坂東さんの鳥辺山。
岡本綺堂のこの作品は、大正年間に歌舞伎作品として上演されました。いわゆる新歌舞伎です。

この時代の戯曲について、私はあまり注目してこなかったのですが、今回お話をお聞きして、いやはや何とも面白い作品で、時代と相当深く絡んでいたことを知りました。この時代の新何々と言うのは、江戸文化の復活で純粋な耽美、懐かしさへの沈湎に思えますが、そうではないのですね。かなり「時代に物申す」ものがあったのだと分かりました。

全く同じ時代に、浮世絵ルネッサンスの新版画運動が起きていますが、この中にも「時代に物申す」があったのかも知れないと、坂東さんのお話をお聞きしながら、はたと膝を打ちました(そういう視点は新版画には全くと言って良い程ありませぬ)

さらに、この作品は「腐」の視点から色々と見渡せるということも分かって、これにも驚かされました。すでに『男色を描く』のアジア編の座談会でも坂東さんから話が出ていたのですが、この作品に出て来る半九郎に対しての、友人の弟、源三郎の怒りには「愛」があるのだという、留学生(ポーランド人?)の恐るべき「腐」的な読み!(まさに不敵な!)

これには会場が唸りました、そしてトーマスさんをはじめとする賛同の声が、ここかしこから上がったのでした。

こうなってくると、あらゆるものが「愛」に見えて来ますね。教会でのミサでもこんなに「愛」に包まれることはまずありますまい。

さて、その後に登壇された大竹さんは、その「愛」の人、村山槐多(むらやまかいた)の作品と手紙を取り上げられました。

この人は、1896年に生まれて1919年に二十二才で夭折した画家・詩人です。その強烈な個性は、どの絵でも一度見たら人々の心を捉えて離しません。とくに、今回大竹さんが取り上げた「尿(いばり)する裸僧」は自画像とも言われますが、その大胆不敵な構図と紅蓮の焔のようなガランス(茜色)には完全に圧倒されます。

また、これも今回大竹さんが取り上げた、槐多の手紙(一歳年下の稲生澯[いのうきよし]への男色ラブレター)も驚愕ものです。相手に対するためらいを、全きに捨てきって放たれる直情的な思慕の情は、岩をも動かさんとする尿(いばり)の力そのものです。

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/da/detail?mngnum=764072&flg=0&language=jp
(槐多の手紙は、上記のサイト、三重県立美術館から見ることができます)

おそらく大竹さんは、同じ絵を描く者として、槐多の純粋さにとことん惚れ込んでいるのでしょう。高村光太郎は「村山槐多」と題した文章で、以下のような追懐をしています。

 「何処にも画かきがいないぢゃないですか、画かきが。」
 「居るよ。」
 「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
  眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
  自然と人間の饒多(ぎょうた)の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

この文章、槐多が亡くなってすぐのものではありません。十六年も経ってからのものです。
おそるべし槐多。

さて、三番目はあんどうれいさん。
知る人ぞ知る、忠臣蔵フリークでいらっしゃいます。そのあんどうさんが取り上げたのは、本家本元の『仮名手本忠臣蔵』ではなく近松の『碁盤太平記』。

忠臣蔵を良く知る研究者の多くは、『仮名手本』より『碁盤』の方が優れた作品だと言います。今回のあんどうさんも、その路線ですが、学者と違って、なんか、とっても、みずみずしいのです。何でだろう?やっぱ、おさな若衆の、大吉・進之助(『男色大鑑』巻一の二の主人公)をこれ以上なく可愛らしく描いてしまう、目をお持ちだからかしらん。

そうしたみずみずしい目のお蔭でしょう。『碁盤太平記』の暗部が今回浮き彫りにされました。
この作品に登場する薬師寺という男です。

この薬師寺、師直邸に遅くやってきて、門番を軽くあしらいつつ「師直公のお寝間にて咄申すことも有」と言います。あんどうさんは、ここに「男色」の腐臭を嗅ぎつけて、師直と薬師寺との関係を疑います。

いや、恐れ入谷の鬼子母神。いままで、この二人にそんな関係を嗅ぎとった研究者は居なかったのではないでしょうか(精査してみないとわかりませんが)。

むろん、この晩にその寝所で色ごとがあったかどうかは分かりませんが、大切なのは、薬師寺が師直の御物上がりであったことがここから連想されることです。

しかも、薬師寺が遅参した理由が、そのすぐ前に「典廐の御所に御用有て」と書かれています。この「典廐」とは中国の言い方ですが、全国から集められた馬の管理をする、つまり厩(うまや)の長のことで、長年この職にあったのが徳川綱吉でした。

ここで暗に綱吉を連想させる「典廐」を持ってきたのは何故か。それはこの『碁盤』が初演された前年に綱吉が死んでいることです。そして将軍が家宣に替って政治世界が一変したことです。

言うまでもなく、忠臣蔵事件の背後には綱吉と柳沢吉保がいます。その二人が居なくなり、忠臣蔵事件のことが書きやすくなったのです。

ということは、この師直と薬師寺との関係には、暗に綱吉と吉保の関係、または綱吉の周辺に居た御物上がりの連中に対する非難があると考えて良いと思います。

そして、これはあんどうさんがいみじくも言いきったわけですが、この薬師寺をばっさりと切り捨てたのが、大星力哉(大石主税)でありました。新時代の聖なる若衆が旧弊の魑魅魍魎的男色を一刀両断にしたということになりましょうか。

ま、ともかくこれは面白いし、いままでスポットがあまり当てられていなかった点だと思います。あんどうさんお見事、拍手です。ぱちぱちぱち。

で、この「おはなし」を享けまして、私は、男色は男色のみならず、女色や何やら様々な問題と一緒に考えてみなくては分かりませんね、と結んだ次第です。

こうしてみると、上手く話が展開したような気がしますが、参加された方々は果たして如何に、お考えになったでしょうか。

次回の若衆研は6月2日(土)あたりを考えております。
日付も確定ではありません。場所も浅草でなく、変更する場合もあります。
いずれにしても、出来るだけ早いうちに決定してブログでご案内しますので、乞うご期待!ですね。

追記*なお、写真にのせた『無明逆流れ』は大竹さんにお借りしたものです。この中の「美童記」は傑作ですね。いやぁ面白い! 南条範夫、おそるべし。












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