世界的研究・教育を、誰がどこでやるか、勝手に決めるんじゃない!
(我家の梅。今年は紅白、いっしょに咲きました。いつもは白が先、紅が後なんですがねぇ。)
今から七年前、東日本大震災で被災した茨城県北部の復興ボランティアとして、韓国の韓瑞大学校から多くの学生たちが駆けつけてくれたことがありました。本当に有難いことで、今でも感謝の念が消えることはありません。
その時、韓国の学生の中に一人の女子学生が居て、彼女が日本の学生や教職員の注目の的となりました。彼女は日本語がほとんど話せなかったのですが、不思議なオーラを持っていて、すぐさま人を惹きつけてしまうのです。
ボランティアが一段落して、近くの食堂で昼食を取った時、地元のお爺さんお婆さんの集まりが妙に盛り上がっていました。ふと覘いてみますと、その中心にその女子学生が居て、彼女を囲んで皆大笑いなのです。彼女は日本語が話せないのですが、そんなのお構いなしに韓国語と英語と覚えたての日本語で、お爺さんお婆さんたちを笑いの渦に巻き込んでいたのです。
「いやぁ、あの学生さん、おもしろいねぇ~↗」と地元特有の語尾上がりの発音で(あの『ひよっこ』の出演者たちの話し方を思い出して下されば結構ですが、忘れちゃいましたかねぇ~↗)、お爺さんお婆さんたちは私たちに声をかけて店を出て行きました。結局、何の話をしていたのか、よく分からなかったのですが、とにかく「踊る!さんま御殿」のさんまさん状態と言いましょうか。
その後、この韓国の学生が私たちの大学に交換留学生として希望してきた時、一発合格であったことは言うまでもありません。彼女の日本語能力では、本来なら合格するのは難しかったと思いますが、その基準を遥かに上回る国際交流の可能性を、彼女は持っていて、大学側はその点を高く買ったのでした。
私が勤めている茨城キリスト教大学は、偏差値としては決して上位に来る大学とは言えませんが、こうした可能性に満ちた人材はたくさんいます。それは地元の茨城でも輝きますが、外国へ行って、その地で地元の人々と触れ合ったときに特別の輝きを放ってくれます。私は学生たちと一緒に外国へ行って、そうした学生たちの輝いた姿を何度も見て来ました。
とくにカンボジア等の東南アジアでの彼ら、彼女らの活躍は見事でした。変な上から目線というのがないのがイイ。ある学生は、カンボジアのストリートチルドレンの子たちに、彼らの要求するものを買ってあげられない、その結果、何もしてあげられないと言って泣きだしたんですね。そうしたら子どもたちが集まってきて、泣かないでって言って、いろんなものを呉れたのでした(笑)。どっちがボランティアやってるんだって、みんなで大笑いしました。でも、それで良いんです。その同じ目線での浸透が大事です。
それから、そうそう、そのカンボジアでの交流の中でも一番輝いた学生は、なんと卒業できずに大学に七年も居たツワモノでした。彼(つまり男子でしたが)は学生たちのリーダーとして抜群の能力を発揮し、現地スタッフとも見事な連携で、外国への学生引率に積極的でない教員と替って欲しいとホント思ったぐらいでした(苦笑)。
世界との交流は全身全霊のものです。生半可な言葉や知識よりも、人間性・人格そのものがぶつかる世界です。そしてその交流についての研究も、そのことを第一に考えなくてはなりません。
ところが昨今、日本経済新聞によれば、文科省が審議会を通して、大学を三種、「世界的研究・教育の拠点」「高度人材の養成」「実務的な職業教育」に分類する案を出したらしい。「実務的な職業教育」には、「学部教育が中心」「産業活性化など地域課題に応える研究」とあります。
最初にこれを見た時、お主は明治時代か!舞姫か!と思いました。
グローバル化や国際化を国のトップ同士が牽引しよう、という発想自体が完全に時代遅れです。それは「石炭をば早や積み果て」ていた時代のもので、飛行機を使って日帰りで外国旅行ができる今の時代ではほとんど意味をなしません。地域や裾野が、直接外国や異文化と交流して日本を引っ張って行く時代です。本当の意味でボーダーレスな社会が来ているのです。
ですから、ぼくは国家にリーダーは要らないと思っています。少なくとも政治家はリーダーである必要はないとも思います。リードは各地域や各団体・個人でやるから、政治家や官僚はその調整役をやってくれればいい。政治家からリーダーを出そうとするから、ろくでもないことばかりが出来する。
ちなみに、上記の審議会では三種の枠組みの間を移動できるようにすべきだと言う意見もあったとか。そういう問題じゃないんです。この三つの枠組み自体がおかしいんです。こういう、学問の自由を奪う枠組みを、誰かが勝手に決めること自体がおかしいのです。
これから、社会はどんどん多様化・流動化していくはずです。大学はそれに対応しなければと思います。私たち、日本文学研究者も、その多様化・流動化に対応しなくてはいけません。そのためには、日本に居たらダメだと思う。いま、世界に起きつつあるジャポニズム(反日もジャポニズムの一種です)を肌身で感じて来なくては。
とくに若い日本文学研究者たちには、ぜひそうして欲しいと思います。若手のフットワークは、小峯和明に完全に負けとるよ。もちろん僕も小峯さんには敵わないのだけど・・・。
さて今回、苦言めいたことが多くなったのは、他でもありません。木越治さんが亡くなったからです。木越さんは常にチャレンジャーであり闘う人でありました。あの勇気、ぼくも十分の一、百分の一でも良いから欲しいと思ったことが何度もありました。
今でも、私の研究ノートに挟みこんでいる、木越さんの言葉があります。2014年3月15日の木越さんのブログからのものです。当時、中野三敏氏が論文「西鶴戯作者説再考─江戸の眼と現代の眼の持つ意味」を岩波の『文学』に発表されたのですが、それに対する西鶴研究者の意見表明があまりに少ないのに対して、木越さんは以下のように我々を叱咤されました。
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西鶴研究を専門とする人たちが、なぜ、もっと活発に発言しないのだろうか?
かつて、西鶴研究の停滞を憂えて、雑誌の特集号の編集まで買って出た人間として、いまの、西鶴研究者たちの反応の鈍さは、なんとも歯がゆい気がする。
論争よ、起これ。
上の世代に遠慮なんかするな。
実証のカラに閉じこもっていてはダメだ。
あなたがたは、なんのために、西鶴をやっているのですか?
中野先生の論文に対して、表だった反応が篠原氏しかないことを含め、こういう光景は、とても「近世文学会」的であるように思える。
そして、それは、この学会のいちばん駄目なところだと思う。
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私のめざす文学研究の方向は、作品に徹し、作品論の樹立に賭けた木越さんの方向とは違いますが、常にチャレンジしようという志は同じだと思っています。私も、忘却散人さん(2018/3/5)とおなじく、木越さんの著書・論文、そして珠玉のブログ・エッセイを読み続けていきます。 合掌
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