西鶴は刀剣男子(マニア)だったかも、の説

扉1.jpg_large
(今回の全訳の扉、とうらぶを意識しているよね、これ・・・)

10月21日の拙ブログで、『男色大鑑』巻一の四に出て来る若衆、増田甚之介が持っていた「肥前の忠吉二尺三寸」の刀についてすこし書きました。

http://someyatomo.seesaa.net/article/462301615.html

この「忠吉二尺云々」が突如として登場するのは、けっこう重要な問題を含みます。

まず、西鶴はこの「忠吉云々」について一切説明をしていません。ということは、読者の大方はこの「忠吉云々」が説明なしでも分かったということを意味します。かなり読者は刀に詳しい方々・・・ひょっとして武士? だって、佐賀藩の武士・山本常朝が口述した『葉隠』に、西鶴の『男色大鑑』が絶賛されているのだから・・・。

ということも考えられるのですが、刀に詳しい=武士、という風には単純には結びつきません。というのは、良く知られているように、江戸時代に刀を差していたのは、武士だけでは無かったからです。町人などの庶民も護身用に持っていて、旅に出るときなどはとくに刀を差したと言われます。西鶴も、

町人のすゑずゑまで、脇差といふ物さしけるによりて、云ひ分喧嘩もなくておさまりぬ。世に武士の外(ほか)、刃物さすことならずば、小兵なる者は、大男の力のつよきに、いつとても嬲(なぶら)れものになるべき。一腰恐ろしく、人にも心を置によりて、いかなる闇の夜も独(ひとり)は通るぞかし。(『好色一代女』巻二の二「分里の数女」)

(訳)町人の、そのはしくれまでもが脇差というものを差しているので、口論や喧嘩もなくて平穏無事で過ごすことが出来るのです。もし世の中で武士以外に刃物を差すことが出来なければ、小柄の男は大男で力の強い者に、いつでも、なぶりものにされてしまうでしょう。腰に差している脇差が恐ろしくて、人に気兼ねするので、どんな暗い夜でも一人歩きができるのです。

などと書いて、町人の誰もが刀(脇差)を持っていたこと、その刀のお蔭で喧嘩もなく平和な生活を営むことができることを述べています。

いくら打刀(刀長、二尺三寸、約70センチ程度、またはそれ以上)でなく脇差(刀長、30センチ~60センチ程度のもの)であっても、護身用となれば柄の締めや刃こぼれなどの手入れもしたでしょう。丈夫で良い刀を持ちたいとも思ったはずです。つまり、町人たちも刀への関心が高かったと考えられます。そうした中、西鶴は「忠吉云々」と刀の知識をさらっと滑り込ませたと考えられます。

次の問題点は、この「忠吉云々」をはじめとして、『男色大鑑』には刀が多く登場し、しかもその描写がけっこう詳しいことです。たとえば「形見は二尺三寸」(巻二の一の章題)、「中脇差は思ひの焼け残り」(巻三の三の章題)と章題に刀を入れたり、「貞宗の守り脇差」(巻一の三)「大原の実盛二尺三寸」(巻二の一)「紙巻きの小脇差」(巻二の五)「脇差刃引き」(巻三の五)など、「忠吉云々」と同じく、何の説明もなく刀の銘や用語が飛び出しますし、また長刀・素鑓などもよく登場します。加えて、巻一の五「墨絵につらき剣菱の紋」の武士・島村大右衛門は、たたみ船・浮き沓・棒火矢など忍者顔負けの武具の使い手として登場します。

ここから、西鶴は読者の興味に合わせて刀や武具の描写に力を入れたのと同時に、西鶴自身もかなり刀剣や武具のマニアではなかったかと思われてくるのです。

そう思う理由の一つには、西鶴が住んでいた大阪の錫屋町(鑓屋町)という環境が挙げられます。

大阪図1.jpg

ちょっと見にくいと思いますが、大阪(寛永頃、1630年~40年ごろ)の図です。
西鶴が住んでいた頃より、ちょっと前のころということになります。

その西鶴の住んでいた西鶴庵は、谷町筋近くの錫屋町(鑓屋町)で、まさにその呼称の如く、ここは武家の集住地と町人町との「谷」町でした。西鶴の住んでいたこの場所を当時の地誌から見てみますと、武家と町家の中間であったためでしょう、武具や馬具を揃えたり、修理したりする商売が多かったことが分かります。かつて論文に書いたことですが、再度引用してみましょう。

この谷町筋には武具に関連した名を持つ町名が多い。その典型はかつて西鶴庵があったとされた鑓屋町であるが、他にも革屋町・具足町・錦町などが名を連ねている。また、西鶴庵のある錫屋町も、錫は刀剣の装飾などに使われたものであるから、そうした武具に関連する店が多かったことが推測される。また『好色一代男』大坂版の版元である荒砥屋孫兵衛可心の荒砥屋も刀剣を磨く荒砥石を扱った店である。この荒砥屋とは野間光辰氏の『刪補西鶴年譜考証』(天和二年の条)によれば思案橋浜にあったとされるが、思案橋は東横堀川端であって、谷町筋から比較的近いところである。『難波すゞめ』や『難波丸綱目』によれば砥石屋・砥石問屋が多かったところである。
谷町筋の周辺に武具を商う店が多いのは、すぐ近くに武家屋敷があったことが第一の理由として挙げられる。貞享元禄期の古地図を見ると、谷町筋近くの武家屋敷と並んで具足同心や鉄砲同心・奉行、また破損同心など、武具の管理やその破損修理を仕事とする武家の存在が目を引く。こうした武家の要求に応えるために、谷町筋では武具を商う商人たちが多く集住したと考えてまず間違いない。
(拙著『西鶴小説論』「西鶴・大坂・椀久」2005年、翰林書房、初出は「『椀久一世の物語』と大坂」、茨城キリスト教大学紀要34号、2000年12月)

ま、つまり、西鶴の住んでいた場所は、刀をはじめとする武具・馬具やそれに関連する道具類がたくさんあったと考えられるのですね。西鶴がこの谷町筋界隈に住むようになったのがいつ頃からかは分かりませんが、そうした環境が自然と西鶴を刀剣男子(マニア)にしていったことは十分に考えられます。

ちなみに、この谷町は大阪の情報を集めるのに好立地だったと思われます。武家と町家の中間でしたから、武士や商人の話がどんどん入って来たでしょう。また、大阪は元禄当時、日本の中心地で(江戸はまだ中心ではありませんでした)、全国の情報が大阪に集まりました。とすれば、西鶴の住んでいたところは、全国の情報を最も手に入れやすい場所だったということにもなります。

西鶴は全国を旅したという話もありますが、私は西鶴はこの谷町筋に、居ながらにして全国の情報を集めた、つまり定点観測していたのではないかと見ています。





この記事へのコメント

最近の記事

最近のコメント