文学研究よ、「腐」力こそ浮力かもよ。

(『裸一貫!つづ井さん』つづ井著、文藝春秋)
すこし前まで、本屋に行っても、出て来るまで、それほど時間はかかりませんでした。専門の日本文学のコーナーと周辺の文学全般、隣接する歴史学、思想分野を眺めて、雑誌のところも、岩波の『文学』を始めとする専門研究誌を眺めれば、はいおしまい、とばかり本屋を後にすることができました。
ところが、昨今、若衆研の影響で、様々に興味が広がって、漫画もBLを中心にしっかり見るわ、専門書も社会学や宗教、さらには生物学やら生理学まで、雑誌も幅広く眺めてしまい、すぐ小一時間程度が経ってしまいます。
学者にあるまじきミーハーな態度なのですが、これが面白いから止められません。
この『つづ井さん』もそんな中から買い求めたものですが、とにかく面白い。私としての圧巻は、つづ井さんの誕生日のプレゼントに、お仲間が、つづ井さん「推し」メンの架空のインタビュー記事を作ってしまうところでしょう。
つづ井さんにやっとこさ「推し」が出来たので、お仲間たちは、その「推し」に関連する形で何かプレゼントをしようと考えます。ところが、「推し」の情報があまりに少なくて面白いプレゼントが浮かばないんですね。それでなんと架空の「推し」のインタビュー記事をDIYよろしく作り上げようとします。とはいえ、情報量の少なさをどう想像力でカバーするか、その努力の熱・圧たるやすさまじく、読者はこの展開、涙なしでは読めません。
もう、「推し」はどうでもいいんですね。その「推し」をめぐる仲間にこそ意味があるわけで、確かに、ここに「推し」の実物が出てきたら、公式ウザいになりますわ。この、架空インタビュー記事を二次創作と言っても良いのだけど、もう二次ではありませんね。完全に一次を越えた、新生いや神聖一次ですね。
いま、青山学院の授業で、稚児の話をしています。その関係で仏教や法華経、その法華経に中にある観音経のことに触れるのですが、実は、この仏教と法華経(妙法蓮華経)の関係と、この『つづ井さん』の「推し」とその「推し」の架空インタビュー記事の関係が良く似ています。
釈迦が説いた仏教(根本仏教)と、法華経はまったく違うものです。出来た時代も400年以上離れていますが、内容も掛け離れたものです。釈迦の仏教は苦をどう乗り越えるかという極めてシンプルなものなのですが、法華経は壮大な叙事詩となっています。そして、ここが大事なのですが、東アジアに広がった仏教はこの法華経を主軸とする大乗仏教でした。そして、いま仏教と言えば、この大乗仏教が主流です。
つまり、法華経は仏教の二次創作なのですが、つづ井さんの架空インタビュー記事と同じで、法華経は釈迦仏教を越えた力を持つに至りました。その力なくしては、仏教は無かったとも言えるのです。
大乗仏教の一方には、上座部(小乗)仏教があります。授業でも話をしましたが、大乗と上座部が分かれたのは、上座部が釈迦の教えを徹底的に順守しようとしたのに対して、大乗は釈迦の精神こそが大切だからということで、形式などは時代に合わせて変化させて行ったことにあります。つづ井さんに話に合わせれば、生身・公式の「推し」をとにかく大事にしたのが上座部で、「推し」を慕うあまりに実際の「推し」を越えた「神推し」を作り出してしまったのが大乗だったということになります。
このどちらが正しいということではもちろんなく、両方ともに必然性があることです。
そこでひそかに思うに、文学作品にも上座部と大乗があっていいわけですね。たとえば『源氏物語』を作者紫式部がどう考え、どう意識して書きあげたのか、また平安時代の文化や言葉から『源氏』がどう読めるのか、読めないのかを考えるのが上座部的であるとすると、『源氏物語』の精神とは何かを徹底的に考え抜いて、その精神を新しい素材に注入して新しい時代に合った『源氏物語』とは何かを考えてゆく。これが大乗的と言うことになります。
今まで前者を主に担ってきたのが学者で、後者を推進してきたのが創作者、主に物語作者、小説家であったわけです。
でも、上座部仏教と大乗仏教は方法の違いであって同じ仏教であり、ともに僧侶が居て仏教学者がいます。そのことを考えると、文学にも前者の上座部的志向に創作者が居て、後者の大乗的志向にも学者が居ていいわけですね。
私がいまやってみたいことの一つが、この大乗的志向を文学のレベルで考えてみることです。
そのきっかけを与えてくれたのが、大竹直子さんを始めとする漫画家さんたちとの交流、そして畑中千晶さんを中心に、坂東実子さん、ナムティップ・メータセートさんたちの二次創作・アダプテーションの考え方です。
そして特に刺激になっているのは、トーマスさんこと泊瀬光延さんやおぼろつきよさんの『男色大鑑』スピンオフ小説ですね。昨今のもので言えば、おぼろつきよさんの『狸のあだうち』が面白い。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054891120970
『男色大鑑』巻二のニ「傘持つてもぬるる身」には物語の脇筋として狸の話が登場しますが、おぼろさんは、この脇筋をメインにして、西鶴の話を組みたて直しています。なるほど、狸の眼から見た小輪と殿、そして明石藩。。。奥方が愛玩する白猫が登場するのも面白い。。。
ネタばれもありますから、これ以上は唇寒しですが、もののふ(武士)の歴史は人との戦いの前に、ながく動物たちとの戦いがあったことを鑑みれば、このおぼろさんのスピンオフは、もののふ(武士)の原基的イメージを喚起させもします。
私は西鶴が「傘持つてもぬるる身」に狸の話を入れたのは、そうしたもののふ(武士)が引きずってきた、殺生の持つ残虐性と罪深さを、小輪の華奢な肉体と美麗な姿に滲ませるためではなかったかと密かに思っていましたので、おぼろさんの小説はまさにそうした方向性を再生したものとして、たいへん面白く感じた次第です。
こうした、新しい創作によって呼び起こされる、読み起こされる西鶴の精神とその分析・批評こそ、これからの西鶴研究、文学研究に必要なものではないかと思うのです。
当分、この「腐」力、二次創作力、大乗力がみなぎる若衆研の活動はやめられませんね。まあ、行けるとこまで行くしかなさそうです!(笑)。
(染谷記)
この記事へのコメント
でも、いただいたコメント、貴重な内容ですので、若衆文化研究会のラインやメールで拡散させていただきます。ありがとうございました。